忍路環状列石(読み)おしよろかんじようれつせき

日本歴史地名大系 「忍路環状列石」の解説

忍路環状列石
おしよろかんじようれつせき

[現在地名]小樽市忍路

小樽市西部の忍路地区の河岸段丘上に位置するストーン・サークルと、それを囲む遺構群を含む遺跡。ストーン・サークルの範囲は国指定史跡。北接する低湿地部分は忍路土場おしよろどば遺跡として区分されている。ストーン・サークルは種吉沢たねきちざわ川の河岸段丘上、標高二〇メートルの緩やかな斜面を削平した平坦面に、長径三三メートル・短径二二メートルの南北に長い楕円形に立石が配置されている。現状では南辺から東辺にかけての山側は二重の配石が確認できる。それらの一部は削り出された斜面に立てかけられるように配置されている。環状配石の内側には七ヵ所ほどの小さな配石がみられるが、この位置や立石の形状は後世の改変の疑いがある。遺跡南方に続く丘陵は三笠みかさ山とよばれ、かつて三笠山環状石籬と紹介されたことがある。近世末期よりニシン漁場に赴いた人々によってその存在は知られていたが、明治一九年(一八八六)「人類学会報告」に渡瀬荘三郎が田内捨六の調査を紹介するかたちで報告。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「忍路環状列石」の解説

おしょろかんじょうれっせき【忍路環状列石】


北海道小樽市忍路にある約3500年前の縄文時代後期と推定される環状列石(ストーンサークル)。三笠山の麓の標高20mの河岸段丘上に位置する。高さ約1mの石柱が、長径約30m、短径約23mの楕円形に並ぶ。外周には約3mの幅で小石が敷かれ、その外側にも石柱が点在する。内部にも石柱の一部が残存する。1861年(文久1)には発見され、札幌農学校の第1期生である田内捨六が1880年代に発掘調査し、1886年(明治19)に人類学者の渡瀬荘三郎が「環状石籬(かんじょうせきり)」と命名して『人類学会報告』第1巻1号に報告した。ストーンサークルとしては日本の考古学史上初めて学会に報告されたものだといわれる。1961年(昭和36)に国の史跡に指定された。北海道にある類似の遺跡の中では最大規模である。「三笠山ストーンサークル」、「忍路環状石籬(おしょろかんじょうせきり)」とも呼ばれる。遺跡の性格、年代についてははっきりしないが、区画墓(周囲を石などで囲んで儀式の場を区別した墓)と呼ばれる集団墓地だったという説が有力。環状列石の北側に忍路土場(どば)遺跡が隣接し、そこから巨大木柱が発掘されている。環状列石と関連した祭祀的な道具だったと推定されている。JR函館本線蘭島駅から中央バス「忍路中央小学校前」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「忍路環状列石」の意味・わかりやすい解説

忍路環状列石
おしょろかんじょうれっせき

北海道小樽(おたる)市忍路町2丁目の通称「三笠山(みかさやま)」の麓(ふもと)にあるストーン・サークル。幕末ごろよりその存在が知られていた。標高20メートルほどの緩斜面に、大小さまざまな河原石を並べている。規模は南北33メートル、東西22メートルで楕円(だえん)形に並んでおり、中央部西よりに高さ1メートルの角柱状立石が1本立っていた。1880年代に田内捨六(すてろく)によって約33平方メートルほど試掘されたが、浜石が層をなしていただけであった。その後、1949年(昭和24)に本遺跡西方の地鎮山頂上から同様な遺跡が東京大学の駒井和愛(こまいかずちか)によって発掘され、これらの遺構は縄文時代後期の墓と考えられるに至った。61年国の指定史跡となった。

[野村 崇]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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