鹿児島県東端,志布志湾に臨む市。2006年1月有明(ありあけ)町,志布志町,松山(まつやま)町が合体して成立した。人口3万3034(2010)。
志布志市西部の旧町。旧曾於郡所属。人口1万1777(2005)。大隅半島頸部に位置し,志布志湾に南面する。北東部の山地を除いて,町域のほとんどはシラス台地で,安楽川,菱田川などによって開析されている。多くの集落は,低位の河岸段丘面上に発達している。基幹産業は農業で,台地上の肉牛の生産と肥育,茶,園芸作物の栽培が中心。茶は大隅の中心的な産地であり,園芸作物ではメロンの集団栽培がみられる。米作の中心地帯は,明治中期~昭和初期に馬場藤吉,野井倉甚兵衛らによって開田された台地上の蓬原(ふつはら),野井倉である。1戸当りの平均経営規模は1.1haで,県内では高い方に属する。海岸沿いを国道220号線が走る。志布志湾岸は日南海岸国定公園に属する。
志布志市東部の旧町。旧曾於郡所属。人口1万8327(2005)。志布志湾に臨み,東は宮崎県に接する。古くからの港町で,江戸時代は志布志千軒といわれるほど繁栄したが,明治以降衰えた。しかし大正末から昭和にかけて志布志線(1987廃止),北郷線(現,JR日南線),古江線(のちの大隅線。1987廃止)が次々に開通,1931年には志布志港が完成して海陸交通の要衝として再び活気を取り戻した。69年,重要港湾の指定をうけ,飼料穀類の輸入基地,東京・大阪と結ぶ大型フェリー基地として重要な地位を占めている。市街地は海岸平野上に東西に細長く発達し,その背後に標高40m程度のシラス崖が迫っている。シラス台地を安楽川,前川が切り,急峻な谷を形成するが,近年,谷や台地上にも住宅地が伸びている。また海岸を埋め立てて臨海工業地帯を造成した。飯盛山古墳(前方後円墳),楡井頼仲開基の大慈寺(臨済宗),律宗の宝満寺跡などがあり,海岸部と沖合の枇榔(びろう)島一帯は日南海岸国定公園に指定されている。
執筆者:吉成 直樹
志布志の初見は1316年(正和5)で,当時この地は日向国諸県(もろかた)郡に属し,島津荘内救仁院(くにいん)と呼ばれていた。律令制初期は大隅国大隅郡内であったが,律令制の乱れで変動した。その港は志布志津として知られ,古代以来利用された。南北朝期の1330年代には,信濃源氏を称する楡井頼仲が志布志松尾城を本拠に急成長し,宮方に属し57年(正平12・延文2)自刃まで大隅地方を制圧した。その後大隅守護島津氏久が65年(正平20・貞治4)ころより志布志内城を本拠とし,氏久が鹿児島へ移ってからは一族の新納(にいろ)氏の所領となった。戦国時代には豊州島津家,肝付氏らの争乱があったが,島津藩政下では諸県郡志布志郷として東の境目の拠点で,番所,津口番所,辺路番所などが設けられた。港として引き続いて栄え有力な廻船業者が多くいたが,なかでも中世以来の和田家(せん二屋),山下家や幕末の分限者宗五郎を出した中山家は著名である。
執筆者:三木 靖
志布志市北西部の旧町。旧曾於郡所属。人口4666(2005)。大隅半島の北東部に位置し,中央部にはシラス台地が広がる。1188年(文治4)平重頼が松尾城を築いて居住し,その後平山氏,肝付(きもつき)氏,市来氏などの支配下に置かれ,1577年(天正5)からは島津氏の所領。92年(文禄1)には救仁院志布志郷から分離独立して松山郷となる。第2次大戦中にはアメリカ軍の志布志湾上陸に備えて本土防衛の基地が築かれた。純農村地帯で,台地上では肉牛飼育,養豚を中心に,メロンなどの施設園芸,茶栽培も行われ,河川沿いの沖積低地では米作が行われる。過疎化が進行しているが,1970年代以降,繊維や電子工業の工場誘致を進めている。松尾城跡は曾於八景の一つに数えられる桜の名所。
執筆者:吉成 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鹿児島県、大隅半島(おおすみはんとう)の東部に位置する市。2006年(平成18)曽於(そお)郡松山町(まつやまちょう)、志布志町、有明町(ありあけちょう)が合併して市制施行、志布志市となった。北部は起伏の多い山陵、中央部から南部にかけてはシラス台地が広がる。南は志布志湾に臨み、南方の沖合に枇榔(びろう)島が浮かぶ。志布志湾に注ぐ前(まえ)川、安楽(あんらく)川、菱田(ひしだ)川の流域に低平地が開ける。中心は前川河口の志布志町志布志で、JR日南線(にちなんせん)、国道220号が通じ、大阪、志布志を結ぶ大型フェリーボートが運航する。志布志の地名は、天智天皇が薩摩国頴娃(えい)への往路・帰路の途次に当地を訪れ、女性たちが贈った手布を賞されたことにちなむといい、枇榔島の枇榔神社、国指定重要文化財の銅鏡(和鏡)を所蔵する山宮神社(やまみやじんじゃ)、志布志の大クス(国指定天然記念物)などには、それぞれ天智天皇にまつわる伝承が残される。
大隅(おおすみ)国に属し、平安末期からは救二院(くにいん)に含まれた。志布志津は海陸の交通の要衝、島津荘の要港として発展。在来の領主は救二院氏であったが、鎌倉時代になると島津忠久、次いで北条氏が支配し、北条氏によって宝満寺(ほうまんじ)(跡地は県指定史跡)が西大寺流律宗寺院として再興されたとみられる。南北朝期には志布志に松尾(まつお)城や内(うち)城が築かれ、南北両朝勢力攻防戦の場となった。当初は松尾城が、のち内城が志布志城とよばれ、志布志城の城主は楡井氏―新納(にいろ)氏―島津氏―肝付(きもつき)氏―薩摩藩島津氏と変遷、江戸初期に廃城となった(跡地は国指定史跡)。志布志津は室町時代以降も引き続いて国内外航路の要津として栄え、中国の『籌海図編』にも薩摩・大隅の主要港湾の一つと記される。南北朝期に楡井氏が創建したという褝宗の大慈寺(だいじじ)の歴代住持は、外交に精通した五山系禅僧で、1609年(慶長14)島津氏の琉球侵攻の際には、使節として同行している。江戸時代、海外との交易禁止後も志布志湊は琉球・大坂方面への物資の中継地、蔵米の集積地として繁栄、また志布志は鹿児島城下と結ぶ志布志筋沿いの町場となり、志布志千軒町といわれるほどの賑わいをみせた。明治、大正、昭和にかけて、シラス台地の水田化が図られ、蓬原新田(ふつはらしんでん)や野井倉新田(のいくらしんでん)などが誕生している。
現在の基幹産業は農業で、米作のほか、サツマイモ、ピーマン、茶やイチゴ、メロンなどの果物の栽培、畜産も盛ん。チリメンジャコなどの沿岸漁業も行われ、水産加工品、焼酎などが特産品として知られる。枇榔島の亜熱帯性植物群落は国指定特別天然記念物。海岸部一帯は日南海岸国定公園に含まれる。面積290.28平方キロメートル、人口2万9329(2020)。
[編集部]
鹿児島県東端、曽於郡(そおぐん)にあった旧町名(志布志町(ちょう))。現在は志布志市の東部を占める。旧志布志町は1913年(大正2)町制施行。2006年(平成18)有明(ありあけ)町、松山(まつやま)町と合併、市制施行して志布志市となった。旧町域は志布志湾に臨み、北部、東部は山岳森林地帯で、南部海岸低地に市街地が発達し、その背後にシラス台地が広がる。大隅半島(おおすみはんとう)の交通の要衝として発達し、JR日南線(にちなんせん)、国道220号が通じる。また大阪と結ぶ大型フェリーボートが運航する。古くから文化の栄えた地域で、神亀(じんき)年間(724~729)建立の宝満寺跡や、1340年(興国1・暦応3)創建の大慈寺(だいじじ)などがあり、とくに江戸時代は薩摩(さつま)藩の主要な貿易港として繁栄した。増大する貨物と船舶の大型化に適応するため、1968年(昭和43)以来港湾の整備が行われている。米、野菜、畜産のほかチリメンジャコなどの沿岸漁業も行われる。亜熱帯性植物群落のある枇榔島(びろうじま)(特別天然記念物)や白砂青松の湾岸は、日南海岸国定公園に指定されている。
[田島康弘]
『『志布志町誌 上』(1972・志布志町)』
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