(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年未詳。室町中期の管領(かんれい)。治部大輔(じぶのたいふ)、左兵衛佐(さひょうえのすけ)。渋川義鏡(しぶかわよしあき)の実子。斯波義健(よしたけ)の養嗣子(ようしし)義敏(よしとし)が重臣甲斐常治(かいつねはる)と争い、将軍義政(よしまさ)から廃せられたのち、義政の計らいで1461年(寛正2)斯波氏を継ぎ、越前(えちぜん)、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)の三国守護を兼ねた。やがて義政は伊勢貞親(いせさだちか)らの勧めで義敏を許し、66年(文正1)義廉の三国守護職(しき)を奪って義敏に与えたが、被官は多く義廉を支持し、義廉の母と同族の山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))も加担した。貞親・義敏はいったん没落し、義廉は三国守護に復し、翌67年(応仁1)管領に任ぜられた。まもなく応仁(おうにん)の乱が起こると宗全の西軍に加わったので、翌年管領を罷免され、さらに71年(文明3)重臣朝倉孝景(たかかげ)が東軍に降(くだ)り、越前を制圧したため義廉は勢力が衰え、75年尾張に下り、織田敏広に擁せられた。
[小川 信]
室町中期の武将。生没年未詳。渋川義鏡の子で別名義寛。1452年(享徳1)越前・尾張・遠江3ヵ国守護であった斯波義健の没後に家督を継いだ義敏が,甲斐,朝倉,織田氏らの重臣の支持を失い,60年(寛正1)大内氏を頼って周防に逃れた。翌年に斯波家の家督を継ぎ,3ヵ国守護職となった。義敏が大内氏の力を背景に一時家督を回復すると,義廉はただちに義父山名持豊を頼んで再び家督についた。この家督争いが応仁・文明の乱の一因となった。西軍に加わった義廉は,67年(応仁1)管領となったが,朝倉氏の勢力台頭によって衰えていった。
執筆者:田沼 睦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1446/47~?
戦国期の武将。渋川義鏡(よしかね)の子。治部大輔・左兵衛佐。夭折した斯波義健(よしたけ)の後嗣義敏(よしとし)が重臣甲斐常治らと争って出奔したため,朝倉孝景らに擁され,1461年(寛正2)将軍足利義政の命で家督を継承。越前・尾張・遠江3国守護となる。66年(文正元)義敏が家督を認められたが,翌年1月山名宗全を頼って再び家督に復帰し,管領となる。応仁・文明の乱では西軍に属して管領を罷免されたが,西軍内では足利義視(よしみ)のもとで管領を勤めた。71年(文明3)孝景が東軍に降ると最大の支持基盤を失い,75年には織田敏広を頼って尾張へ下る。以後の動静は不明。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…政長は屋形の引渡しを拒否するとともに,戦闘の準備に入った。8日には山名方の斯波義廉が管領に任命された。これによって,幕府との関係において畠山家の家督争いは,政長派の優位から義就派に移行したことになる。…
…1452年(享徳1)の斯波義健の死後,家督をめぐる義敏・義廉の争いは応仁の乱の一因となり,織田氏をはじめ在地勢力の分裂をひきおこした。75年(文明7)ころには越前・遠江を朝倉・今川の両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が尾張に下り,織田敏広が守護代となった。しかし78年幕府は斯波義敏の子義良(よしすけ)を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。…
…その後,義淳,義郷,義健とつづくが,義健に嗣子がなく一族の持種の子義敏がはいって相続する。ところが義敏(斯波義敏)は守護代甲斐氏をはじめ譜代の重臣層と対立し,ついで傍系の渋川義鏡の子義廉(よしかど)(斯波義廉)が家督を継ぐに至り,斯波氏は2流に分かれ相争うこととなる。義廉,義敏はそれぞれ山名氏,伊勢氏と幕府内の有力者と連携して争ったため,これが応仁・文明の大乱の一因ともなった。…
※「斯波義廉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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