打越村(読み)うちこしむら

日本歴史地名大系 「打越村」の解説

打越村
うちこしむら

[現在地名]中之口村打越

まきしま村の北東にあり、南は長所ちようしよ(現燕市)、北は道上どうじよう村に接し、集落は本村と西村にしむらに分れる。慶長一七年(一六一二)沢将監が従者六人と来村し、開発を主導したと伝えられる(「沢家由緒書」沢家文書)。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高一五六石三斗余とある。同九年幕府領、寛永三年(一六二六)の年貢割付状(沢家文書)には高一五四石六斗余、うち一〇石は「検見ノ下毛」で免二ツ五分・取米二石五斗、残り一四〇石六斗余は免八ツ五分・取米一二二石九斗余で合せて取米一二五石四斗余。


打越村
うちごしむら

[現在地名]熊本市清水しみず町打越・津浦つのうら

東は坪井つぼい川を挟み松崎まつざき村・室園むろぞの村、西の津浦つのうら村より東に続く傾斜地に位置する。「国誌」の打越村の項に「永浦ト云小村アリ」と記され、鎌倉時代以来の長浦ながうら村が近世には打越村の小村となったとも考えられる。建永元年(一二〇六)八月日の沙弥行西長浦遠貞譲状(詫摩文書)によれば、行西は鹿子木東かのこぎひがし庄内の相伝の私領のうち「長浦村田地拾陸町」を、この年以前に菊池永富に寄進している。


打越村
うちこしむら

[現在地名]三好町打越

現町域の東南端で、逢妻女あいづまめ川の西岸沿いに位置する。しん池・百々どうど池・よつ池・徳三郎とくさぶろう池・池・清水釜しみずがま池・井流いりゆう池・山伏上やまぶしかみ池・山伏下池・池・はまり池・うま池・九蔵くぞう池・畦違あぜちがい池・菖蒲しようぶ池・まる池の一六の溜池がある。方貝外ほうがいとというカイト名が残る。「三好町誌」によれば字畦違に五輪塔がある。

近世初めは岡崎藩領、慶長五年(一六〇〇)刈谷藩領、元和二年(一六一六)幕府領、同七年西尾藩領、万治二年(一六五九)幕府領。上切かみぎりは天和元年(一六八一)挙母藩領となり明治維新に至る。中切なかぎりは元禄一一年(一六九八)旗本松平与右衛門忠成領、宝永四年(一七〇七)吉田藩領となり明治維新に至る。


打越村
うちこしむら

[現在地名]緒方町越生こしお 大渡おわたり平原ひらばる駒方こまがた桑迫くわさこ

漆生うるしお村の西にある。緒方庄打越名の遺称地。正保郷帳では田高二二五石余・畑高一三五石余、緒方郷に属し、柴山有、日損所と注記される。漆生村が別に一村として記される旧高旧領取調帳では高三二四石余。寛文三年(一六六三)緒方おお井手が当村に通じて新田が開かれた(両郡古談)。宝暦三年(一七五三)九月一九日当村組頭兼百姓代治左衛門と井上組組頭為右衛門が同組庄屋安兵衛方で藩への検見願と却下された旨を話したことを契機に、同二一日村民二二名と井上いのうえ村の四二名がかた(現竹田市)に押寄せて検見願を強訴した。


打越村
うちこしむら

[現在地名]所沢市山口やまぐち

氷川ひかわ村の東にあり、南は町谷まちや村。南部を柳瀬やなせ川が東流する。狭山丘陵山口谷の村々の一で、東方に小規模な畑と谷戸田が連なる。入間いるま郡山口領に属した(風土記稿)。田園簿では田二〇石余・畑六六石余。旗本向坂領。元禄一五年(一七〇二)向坂領は収公され(寛政重修諸家譜)、以後幕府領。検地は天正年中(一五七三―九二)に向坂五郎六郎により行われたと伝える(天和三年「村諸事控」勝光寺文書)、享保一〇年(一七二五)開発に着手した打越新田があり、延享期(一七四四―四八)の反別は九町六反余(「元文寛保延享里正日誌」東京都内野家文書)


打越村
うちこしむら

[現在地名]小松市打越町

若杉わかすぎ村の西に続く平坦地にあり、北は白江しらえ村、西はおき村。文明一〇年(一四七八)二月日の建仁寺両足院領目録(両足院文書)に打越とみえ、京都建仁けんにん寺の塔頭両足りようそく院の所領として返還を求め、同年五月八日室町幕府より両足院へ他の所領とともに返付されている(「足利義政御判御教書」同文書)。長享元年(一四八七)一〇月二日加賀守護富樫政親は幕府の命を受けて両足院領の百姓宛に、打越などの年貢を新任の寺家代官大西帯刀丞に納め、その沙汰に従うよう命じているが(「加賀守護富樫氏奉行人連署奉書」同文書)、この年貢滞納には能美三ヵ庄の代官小野氏(小野村を本拠とする土豪か)が謀書をもって両足院領代官と号し、年貢を押領していた事実があった(一一月二日「山川高藤書状案」・同年一一月六日「加賀守護富樫氏奉行人連署奉書」同文書)


打越村
うちこしむら

[現在地名]八王子市打越町・北野台きたのだい一丁目・同四―五丁目・絹ヶ丘きぬがおか一―二丁目

湯殿ゆどの川の南岸から高幡たかはた丘陵の北面にかけて立地し、西は片倉かたくら村に接する。八王子地域から小野路おのじ(現町田市)方面を結ぶ道(現野猿街道)が東西に通じており、村の南東端にあたる猿山さるやま(現野猿峠)を越えるため猿山通ともよばれた。戦国期以来の古道という。田園簿に村名がみえ、田一二六石余・畑九五石余で幕府領。元禄郷帳では高二九七石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本神保領で高二七二石余。以後幕末まで同領と考えられる。「風土記稿」では民家六三。文久二年(一八六二)の組合村書上帳(水越家文書)では家数五八、男一五〇・女一〇四、馬五。


打越村
うちこしむら

[現在地名]姫路市打越・白鳥台はくちようだい一―三丁目・緑台みどりだい一―二丁目

揖東いつとう郡に所属。飾西しきさい実法寺じほうじ村の北西に続く村。大永年中(一五二一―二八)の惣社走馬之記(智恵袋)によると、惣社(射楯兵主神社)走馬神事に置塩領下の「打越村」居住の大塚太郎左衛門が奉仕している。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)幕府領、寛永三年(一六二六)龍野藩領、同九年幕府領、同一四年龍野藩領、明暦四年(一六五八)幕府領、寛文一二年(一六七二)龍野藩領、宝永七年(一七一〇)旗本脇坂領、宝暦九年(一七五九)幕府領、文政九年(一八二六)大坂城代水野忠邦(遠江浜松藩)領、同一三年幕府領となり幕末に至る(新版「姫路市史」)


打越村
うちこしむら

[現在地名]門真市打越・古川ふるかわ町・寿ことぶき町・常称寺じようしようじ町・宮野みやの町・朝日あさひ町・野里のざと町・上野口かみのぐち町・千石西せんごくにし町・大池おおいけ町・大橋おおはし町・舟田ふなだ

横地よこち村の南、古川左岸沿いの平坦地の村。集落は古川堤防沿いにあり対岸の門真一番下かどまいちばんしも村の集落と対峙する。野口村と接する東部の沼田は千石沼とよばれた。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳によると高三六一石余、小物成として葭蓮年貢米五石五斗余。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩永井尚政領、明暦四年(一六五八)分知されて尚政の四男旗本永井直右領となる。


打越村
うちこしむら

[現在地名]七城町蘇崎そざき

小野崎おのざき村・内島うちしま村の南の台地上に立地し、花房はなぶさ台地の北西端の一角にあたる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に名請人九人(うち屋敷持五)、屋敷数一四、田一町八反三畝余、畠・屋敷一一町五畝余、分米五五石六斗余とある。同一三年の検地帳では、家数一三、人数一二(うち屋敷持三)、名請人は四三、牛馬四、田一町六反九畝余、畠・屋敷一二町八反四畝、分米一〇四石七斗余と記される。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では板井組に属し、戸数四・家数二六、人数三三(うち庄屋一・百姓三・名子一・下人一)、牛馬一〇。その後竹迫手永に属した。「肥集録」には内島村の小村として記載され、「国誌」には、内島村高五〇〇石余のうち当村の高一〇四石余とある。


打越村
うちこしむら

[現在地名]西区打越町・竜王りゆうおう町・山手やまて町・中広なかひろ町一―三丁目・小河内おがわち町一―二丁目

楠木くすのき村の西から西南に位置する。東南は広島城下広瀬ひろせ(現中区)。この東境から川田かわだ川・己斐こい川を挟んで西に並ぶ山々までが村域であり、南は東西に走る山陽道付近を境に広島城下川田村に続き、西南端では佐伯郡己斐村とも境している。沼田ぬまた郡に属した。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高二一九石余。正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」では四九八石余。


打越村
うちこしむら

[現在地名]上平村打越

かつら村の北方、さかい川左岸に位置し、川沿いに道を下ると越中から飛騨国小白川こじらかわ(現岐阜県白川村)への道が通り、籠渡しがある。北の西赤尾町にしあかおまち村へ三〇町、桂村まで二里余(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。赤尾山の加賀藩御林に鷹巣見役が置かれた承応三年(一六五四)、百姓仁兵衛・三右衛門・市兵衛に鷹巣見扶持高がつき打越村が成立、諸役免除であったが仁兵衛らの死亡後は上知となり、正徳二年(一七一二)から鷹巣見扶持高がなくなって他村同様に年貢銀を納めるようになった(「五ヶ山両組御納所方等定書」瑞願寺文書)


打越村
うちこしむら

[現在地名]岐阜市打越

村の大部分は椿洞つばきぼら村の南にあるが、東部が山に沿って細長く北に延びる。集落は南東に開いた四角な地域の周辺山麓にある。慶長郷帳に村名がみえ、高四五九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領。正保郷帳では幕府領で、田四三〇石余・畑二二石余・山年貢六石余。元文二年(一七三七)以前に旗本曾我領となったとみられ、以後幕末に至る。同年の打越・洞両村村役人請書(松井文書)によれば、曾我氏の陣屋がまだなく、両村の村役人は同氏と連絡を密にとることとなっている。のち当地の川島家近くに陣屋が置かれ、打越御役所と地方史料にみえる。


打越村
うちこしむら

[現在地名]加賀市打越町

高塚たかつか村の南西に連なる北陸街道沿いの村で、御橋みはし川の灌漑する水田地帯。「天文日記」天文一七年(一五四八)四月七日条に「打越衆今江慶心」の上番記事がみえ、今江慶心は同一〇年七月二二日条に「前勝光寺下」、同一二年一〇月一二日・同一五年正月二五日条にも「超勝寺下前勝光寺下」として上番している。同二一年一一月四日条では一針空道が「超勝寺下前打越下」として上番。天文末年までの成立と推定される超勝寺下分并本覚寺下分書上(本願寺文書)に「超勝寺下分」としてみえる「打越勝光寺」は享禄の錯乱で賀州三ヵ寺派に属して敗れたため、超勝ちようしよう寺の統制下に組入れられた。


打越村
うちこしむら

[現在地名]輪島市打越町

熊野くまの村の西、河原田かわらだ川中流西岸山間部に立地。正保郷帳に村名がみえ、高一五四石余、田方六町八反余・畑方三町四反。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免四ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一六三石、免四ツ九歩、小物成は山役四五匁・漆役一〇匁・蝋役四匁、炭竈役二六匁(退転)であった(三箇国高物成帳)


打越村
うちごしむら

[現在地名]宇土市栗崎くりさき

東は伊牟田いむた村、西は神山こうやま村、南は浦上うらがみ(現宇土郡不知火町)、北は栗崎くりざき村。応永一一年(一四〇四)の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「打越」とみえ、郡浦こおのうら庄に属した。近世は郡浦手永に属し、天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると栗崎村のうちに打越村が記され、竈数一五・役男一八、庄屋給知高一七五石九斗余、田九町五反六畝余・畑三町二反一畝。


打越村
うちこしむら

[現在地名]袖ケ浦市打越

安部あべ村の南西にある。上原うえはら一帯に土塁・空堀の一部という遺構がある。打越砦とよび真里谷まりやつ(現木更津市)の支城とも伝える。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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