奈良時代に,写経司(のち写経所)という写経事業担当の官庁や,東大寺など官寺の写経所,さらには貴族の家の写経所などで経典の書写に従事した人。写経生(しよう)。写経の校正にあたるものは校生,用紙の仕立てや装丁にあたるものは装潢(そうこう)と呼び,経師とはその任務を異にした。官の経師は,厳重な書体の審査をへて優秀なものが選抜され,採用されると作業用の浄衣(じようえ)(白衣)と食事(精進料理),ならびに筆墨の支給を受けて,写経殿という場所に起居した。その手当としては,40枚の写経(字数約1万7000字,行数約1000行)に対して布1端(たん)(成人1人分の衣服となる分量)が支払われる定めであったが,仕事のできばえいかんにつき評価が加えられ,行の脱落や,誤字・脱字の数によって罰則がもうけられており,所定の数量の折紙(二つ折にして公式文書などに用いる上質紙)を上納せねばならなかった。きまりでは脱落1行ごとに折紙4張,脱字5字ごとに1張,誤字20字ごとに1張となっていた。校生による見落しにも罰則はあった。
平安時代には,官の写経機関が消滅したために,経師たちは権門勢家といわれる有力公家や大寺社とのつながりをつよめて収入源とするとともに,後進者集団にその技芸を伝えたものと推察される。しかしこの時代には僧職者自身による,修行の一環としての写経がさかんとなり,公家社会でも同様であった。また,鎌倉時代に入ると木版印刷の版経が制作され流布しだした。このような動きは,おのずと経師を装丁部門へと向かわせ,経師といえば経典の装丁職人をさすまでになった。《洛陽田楽記》(大江匡房)によると,1096年(永長1)夏に京都に生じた田楽の大流行では〈仏師・経師,おのおのその類を率い〉て加わっていたというが,仏師と対になる経師は,写経者でなく装丁の専門職人とみられる。また,《今昔物語集》巻十四に橘敏行なる公家が四巻経の書写を発願した話がみえるが,彼は写経用の紙を用意して経師に預け,それを継がせ,罫係(けが)け(罫(けい)をひくこと)させてから,写経をしはじめようとしたとある。この経師も同様であろう。鎌倉時代には経典にかぎらず書画幅(ふく),屛風,ふすまなどの表装をも行う経師がふえていた。一名〈表褙師(ひようほうえし)〉とも呼ばれ,いわゆる表具師の原型といえる。
このような経師は室町時代に目だって増加し,それ以降,近世初期にいたる間の各種の〈職人歌合〉や〈職人尽絵(しよくにんづくしえ)〉などに描かれている経師はすべて表装専門の職人であり,別途に入手した書画類を表装したり,補修したりして販売したとも考えられる。書画類の需要は,床の間を備えた室空間の普及,室内装飾への関心の深まりとともに庶民の上層部にも増大していたからである。また,応仁・文明の乱後の京都には,摺暦(すりごよみ)というかな文字で木版印刷の暦を量産し販売する経師たちも現れ,朝廷・幕府・有力公家などを挟んで,たびたび摺暦職(しき)の権利を争った。かな文字を解する庶民が激増し,農事・行事などを含めて,手近に暦のあることが望まれるようになっていたと思えるから,その利益は甚大であったろう。安土桃山時代にはすでに,この摺暦を扱う経師集団は〈上京大経師〉と〈下京大経師〉のもとで2派に分かれて対抗しており,江戸時代におよんだ。
→経師屋
執筆者:横井 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
8世紀の奈良期では写経師のことで、それを巻物にする装潢(そうこう)(書画の表装)の仕事は別の装潢師の仕事となっていた。12世紀の平安後期になって経巻や巻子本(かんすぼん)の製本の仕事が多くなってきて、それが経師のおもな仕事となり、職人として独立した。17世紀の江戸初期からは巻子本だけでなく冊子(さっし)本の製本もするようになり、表装の表具師の仕事も混じってきた。表具師はもとは裱褙(ひょうほい)師といった。一方に、和本の冊子本の製本には表紙屋という専門職人が分化してきて、経師が携わる製本は本来の巻子本・巻物となり、別に表具師の仕事が加わった。居職(いじょく)で、経師屋ともいうようになった。17世紀初めに、京都で表具師の巻物は使いものにならないし、また、経師の表具はよろしくないといわれたように、本来はそれぞれの職分はあったのである。しかし、経師屋といえば、経師の仕事よりも表具師や唐紙(からかみ)師の仕事がおもになってきた。初めは特別な刃の小刀がおもな道具であったが、冊子本が多くなると、竹の弾力を利用して帖(じょう)を圧搾する短く太い柱状の道具や糊(のり)を入れる桶(おけ)または鉢や刷毛(はけ)と金砂子(きんすなご)を振りかけるときに使う水嚢(すいのう)(篩(ふるい))などがあった。また、技法は掛物と同じであるが、糊は薄い。裏打ち、仮張りをして定規をあて紙切り包丁で裁ち、軸に巻き紐(ひも)をつける。経師の仕事は京都が中心で、経師仲間の長を大経師(だいきょうじ)といって、禁裏の注文に応じていたし、暦の印刷・発行の特権をもっていた。
[遠藤元男]
写経生とも。正倉院文書にみえる,写経所で書写を担当した技術者。写経所のなかでは最も人数が多い。経師になるためには,書いた文字の試験(試字(しじ))に通ることが必要だったが,経師の親族や同族はなりやすかったらしい。なお写経所には,各官司から派遣された舎人(とねり)なども働いており,官司の下級官人に抜てきされる者もいた。月ごとあるいは季節ごとに仕事量を報告する手実(しゅじつ)を提出し,給与である布施(ふせ)を支給されたが,このとき誤字・脱字分は減給された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…〈さんぞうほっし〉ともよむ。仏教の聖典の経蔵・律蔵・論蔵のそれぞれに精通した人を,経師・律師・論師といい,三蔵のすべてに通暁した人を三蔵比丘・三蔵聖師といったが,とくに有名なのが三蔵法師の呼称であり,ときには略して単に三蔵と呼ぶこともある。一蔵に精通することでさえ難事であるだけに,三蔵に通暁する法師というのは,きわめて尊敬をこめた意味であった。…
…奈良・平安時代には装潢(そうこう)といい,おもに経巻の表装が行われた。鎌倉時代に入ると裱褙(ひようほえ)と呼ばれ,書画の表装を専門に行う裱褙師が出現し,経巻の表装には経師(きようじ)が当たった。室町時代には,唐絵や禅林墨蹟を唐織(からおり)などを用いて,書院や床の間(当時は押板(おしいた)と称す)における鑑賞用に仕立てられ,書画の選択や表装の演出には同朋衆(どうぼうしゆう)(阿弥派)がこれに当たった。…
※「経師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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