文公(読み)ブンコウ(その他表記)Wen-gong; Wên-kung

デジタル大辞泉 「文公」の意味・読み・例文・類語

ぶん‐こう【文公】

[前697~前628]中国春秋時代国王在位、前636~前628。姓は姫。名は重耳ちょうじ。9年間の亡命後、帰国して即位内政を整え、軍備増強春秋五覇一人に数えられる。

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精選版 日本国語大辞典 「文公」の意味・読み・例文・類語

ぶん‐こう【文公】

  1. 中国、春秋時代の晉の王(在位前六三六‐前六二八)。名は重耳献公の子。善政をしき国力を充実させ、春秋五覇の一人となった。(前六九七‐前六二八

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文公」の意味・わかりやすい解説

文公[晋]
ぶんこう[しん]
Wen-gong; Wên-kung

[生]緡10(前697)頃
[没]文公9(前628)
中国,春秋時代君主 (在位前 636~628) 。五覇の一人。名は重耳 (ちょうじ) 。献公の子。父が寵愛した驪姫の讒言によって太子申生が自殺させられ,その災いが自分に及ぶのを恐れ逃亡。 19年間諸国を流浪し辛苦の末,秦の穆公 (ぼくこう) の援助で帰国して即位した。咎犯 (きゅうはん) ,随会などすぐれた家臣補佐で内政を改革し,国力を充実させ,文公5 (前 632) 年斉,宋,秦の連合軍を率いて城濮 (じょうぼく) の戦いで楚を中心とする陳,蔡などの連合軍を破って楚の北上を阻止した。戦後践土 (せんど) の会を開いて覇者としての地位を確立した。

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改訂新版 世界大百科事典 「文公」の意味・わかりやすい解説

文公 (ぶんこう)
Wén gōng
生没年:前697-前628

中国,春秋晋の君主。在位,前636-前628年。献公の子で名は重耳。晋に驪姫(りき)の乱がおこると讒言をうけて出奔し,趙衰ちようし),狐偃(こえん)らの臣下とともに19年のあいだ諸国を流浪した。秦の穆公(ぼくこう)の助力により,ようやく帰還したときはすでに62歳であったという。即位ののち周室の内乱をしずめ,宋を助けて曹・衛を討ち,また北進してきた楚を城濮(じようぼく)の戦で破り,諸侯と践土(せんど)に会盟して(前632),斉の桓公につづく春秋第2番目の覇者となった。
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百科事典マイペディア 「文公」の意味・わかりやすい解説

文公【ぶんこう】

中国,春秋時代のの君主(在位前636年―前628年)。名は重耳。名君とされる。父の献公は寵愛する驪姫(りき)の公子を太子にたてようとして諸公子を追放,重耳も国外を19年間流浪した。義兄にあたる秦の穆公(ぼくこう)の援助で60歳余で位につき,流浪中の随臣を用いて軍制を中心とする政治体制を整え,能力本位で人材を抜擢した。王室の内乱をおさめて襄王の位を回復し,南方の楚を討って周王を迎えて諸侯と会盟した(前632年)。〈春秋の五覇〉の一人。
→関連項目覇者

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文公」の意味・わかりやすい解説

文公
ぶんこう
(前697/672―前628)

中国、春秋五覇(ごは)の1人で、晋(しん)の君主(在位前636~前628)。字(あざな)は重耳(ちょうじ)。父の献公(けんこう)が驪姫(りき)を寵愛(ちょうあい)したことから発した内乱で国外に亡命し、狄(てき)、斉(せい)、楚(そ)、秦(しん)などに19年間の流寓(りゅうぐう)生活を送ったが、秦の穆公(ぼくこう)の援助を受けて帰国し、即位した。周室の内乱で鄭(てい)に亡命していた周の襄(じょう)王を助けて帰国させ、また強大化した南方の楚を城濮(じょうぼく)(山東省)の戦いで破り、中原(ちゅうげん)を防衛した。践土(せんど)(河南省)に諸侯を集めて会盟を主催し、王より伯(覇)を賜った。

[田中柚美子]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「文公」の解説

文公(ぶんこう)
Wengong

前697~前628(在位前636~前628)

春秋時代のの君主。五覇の一人。名は重耳(ちょうじ)。公子のとき晋の内乱を避けて腹心の部下と諸国を歴遊,の援助のもとに帰国し即位する。の内乱を鎮め,楚(そ)を破り,諸侯を会盟して覇者となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「文公」の解説

文公
ぶんこう

前697〜前628
中国,春秋時代の晋の君主(在位前636〜前628)で,春秋の五覇のひとり
字は重耳。内紛から国外を19年流浪したのち,秦の穆公 (ぼくこう) の援助で即位した。亡命していた周の襄王を復位させ,また楚を破って諸侯を会盟させ,周王室を尊ぶことを誓わせた。これにより,覇者であることを許された。

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世界大百科事典(旧版)内の文公の言及

【秦】より

…前770に周の平王が,周室を助けたという功績により,秦の襄公(前777‐前766)に岐山以西の土地を与えて封建したことでもって周王朝下の諸侯の一員となる。文公(前765‐前716)のときには,汧水(けんすい)と渭水が合流する付近に都を置いたが,勢力の拡大とともに春秋時代には平陽(陝西省岐山県南西),雍(よう)(陝西省鳳翔県南)に置かれた。なお首都はその後,涇陽(けいよう)(陝西省涇陽県),櫟陽(れきよう)(陝西省臨潼県付近)と移り,最終的には前350年(孝公12)に咸陽を都と定め,これが秦滅亡まで首都となる。…

【王安石】より

…字は介甫,号は半山。文公と諡(おくりな)され,荆国公とも呼ぶ。江西省撫州臨川の出身だが,生涯の大半を江寧(現,南京)で過ごした。…

【徳川慶勝】より

…70年(明治3)名古屋藩知事となる。諡(おくりな)は文公。【松田 憲治】。…

【五覇】より

…中国,春秋時代の5人の覇者。5人のうち,斉の桓公と晋の文公を除いた他の3人については,たとえば楚の荘王,呉王の闔閭(こうりよ),越王の句践(こうせん)とする説,秦の穆公(ぼくこう),楚の荘王,呉王の闔閭とする説,秦の穆公,宋の襄公,楚の荘王とする説などがあって,必ずしも一定していない。ただ5人という数は,のちの戦国時代の五行説にもとづいてつくられたものであり,実際には5人に限定する必要はない。…

【春秋戦国時代】より

…桓公は第一の覇者であり,以後歴史は覇者を中心として動く。 桓公の没後,かわって登場するのが晋で,その文公(在位,前636‐前628)は周王室の内乱を鎮め,前633年には北上する楚を城濮(山東省濮県)で破り,践土(河南省滎陽県)に周王を迎えて,楚の捕虜などを献ずるとともに,諸侯に王室への忠誠を誓わせた。こののち華北では晋が覇者の地位を保っていたが,南の楚が勢力を増し,北上の力を強め,鄭などをその傘下に入れるに至った。…

【晋】より

…前679年曲沃(山西省聞喜県)の分家の武公の国を奪い,以後周囲の小国や北の狄(てき)を討って疆域を拡大した。前7世紀後半の文公は,楚の北上をおさえて,覇者となる。以後華北の強大国として,楚と対立したが,春秋後半には,大夫の勢力が強大となり,晋侯の実権は失われ,前453年に韓・魏・趙3家に国土を三分され,前376年3家に滅ぼされた。…

※「文公」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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