中国の明代(1368~1644)に鋳造された銭貨。太祖洪武帝(こうぶてい)は即位前、元(げん)の1361年(至正21)に大中通宝を鋳、即位後68年(洪武1)に洪武通宝を鋳造発行させた。こののち3代世祖永楽帝(えいらくてい)のとき永楽通宝、5代宣宗のとき宣徳(せんとく)通宝、9代孝宗のとき弘治(こうち)通宝を発行。15世紀後半11代世宗は嘉靖(かせい)通宝を鋳、またさかのぼって太祖から10代武宗までの年号をつけた9種の銭(洪武、永楽、洪煕(こうき)、宣徳、正統(せいとう)、天順(てんじゅん)、成化(せいか)、弘治、正徳(せいとく)の諸通宝)を鋳造した。したがって現存する洪煕、正統、天順、成化、正徳通宝は、いずれも1553年(嘉靖32)の鋳造である。嘉靖通宝には、初めて真鍮銭(しんちゅうせん)もつくられている。こののち明では、おおむね代々その年号を付した銭貨を鋳造している。
日本では、皇朝十二銭ののち鎌倉・室町時代には銭貨の官鋳をしなかった。しかし14世紀以降産業の発達に伴い貨幣需要が増大したため、室町時代には、中国の宋(そう)・元銭のほか、洪武・永楽・宣徳通宝など明銭が輸入され流通したが、明銭は時人の好むところとならず、しばしば受領を拒否された(撰銭(えりぜに))。このため商取引、年貢銭収納などに円滑を欠くこと多く、室町幕府や大名、大寺院は撰銭の禁止令を出して、諸銭貨を同価値に、選除せず授受させようとしたが効果は少なかった。戦国時代、関東の北条氏が永楽通宝を基準貨幣としたため、同銭は関東に集まったという伝説がある。1636年(寛永13)江戸幕府は寛永(かんえい)通宝発行による流通貨幣統一政策を実施し、明銭の使用を禁止した。
[百瀬今朝雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
明代に官鋳された中国の貨幣。いずれも銅銭だが,16世紀以降は鉛や錫(すず)の含有がふえる。明朝から朝貢国への頒賜(はんし)物として,また貿易によって日本にも大量に流入し,国内通貨として流通した。大部分は永楽通宝で,ついで洪武通宝・宣徳通宝が多少みられ,その他はほとんどない。はじめは精銭(せいせん)として通用したが,15世紀末以降,明での価値下落の影響をうけて悪銭化する。永楽通宝だけは精銭に準ずる地位を確保し,とくに東国では超精銭となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…日本最初の官銭としての銭貨は708年(和銅1)鋳造の和同開珎(わどうかいちん)で,以後,万年通宝,神功開宝,隆平永宝,富寿神宝,承和昌宝,長年大宝,饒益神宝,貞観永宝,寛平大宝,延喜通宝,乾元大宝のいわゆる皇朝十二銭が鋳造・発行された。中世に入ると各種の中国渡来銭が日本に流入して渡唐銭と呼ばれ,鎌倉時代には宋・元の銭貨が,室町時代には明銭が主として用いられた。明銭の洪武通宝,永楽通宝,宣徳通宝などは中国銭のなかでも最も代表的なものである。…
…実に日本は当時世界屈指の武器輸出国であった。なおこの時代将軍足利義満が国内を統一しながら自国通貨によらず明銭を通貨としたのは,中国銭が北アフリカから東南アジア,東アジアと,回教・仏教圏に広く国際通貨として流通していたためである。一大消費都市である京都,奈良,堺を抱える畿内経済の円滑化をはかるために,近江坂本,京都下京には〈米場〉と呼ばれる米穀取引市場が成立し,なお魚介類については山城淀に魚市が,近江粟津と京都六角町には粟津供御人(あわづくごにん)(粟津橋本供御人)による生鮮魚介,塩,塩合物(しおあいもの)を中心とした日常雑貨の一大卸売市場が形成され,供御人はさながら総合商社の販売人のごとく全国を自由通行して売りさばいた。…
※「明銭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」[補説]アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイ...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新