徳川氏の部将。半三とも書く。石見守,名は正成(まさなり)。父保長(石見守),子の正就(まさなり)(石見守)・正重(伊豆守)兄弟も半蔵(半三)を通称とする。服部氏は伊賀を本国とし,保長のときに三河国に至り徳川(松平)氏の家臣となった。正成は家康に仕え,16歳の初陣以来終始部将として出陣し戦功があった。8000石を知行し,1590年(天正18)徳川氏の関東入国ののち,与力30騎,伊賀同心200人を支配した。江戸麴町の安養寺(のち西念寺と改名し四谷に移る)に葬られる。法名は西念。ちなみに江戸城半蔵門の名は,ここに半蔵の屋敷があったことに由来するという。服部氏は正就のときに失脚し,配下の士は鉄砲百人組4組の中の伊賀組となり,あるいは先手の諸隊の同心となった。
→伊賀者
執筆者:北原 章男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
徳川家康の部将。名は正成(まさなり)、石見守(いわみのかみ)。伊賀者(いがもの)を統率して活躍し、鬼半蔵(おにはんぞう)の異名で恐れられた。父の保長(やすなが)は伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡服部郷(はっとりごう)の出身で、初め将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕えたが、のち三河国(愛知県)に来(きた)り、松平清康(きよやす)・広忠(ひろただ)(家康の父)・家康に歴仕し、三河で没した。半蔵正成は保長の五男で三河に生まれ、16歳のとき三河の宇土(うど)城の夜討ちに初陣し、伊賀の忍びの者60~70人を率いて城内に潜入し、武功をたて家康の持槍(もちやり)(長さ7寸8分)を拝賜したのをはじめ、姉川(あねがわ)、高天神(たかてんじん)、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いなど、諸所において目覚ましい働きをみせた。とくに1582年(天正10)本能寺の変に際しては、おりから泉州堺(せんしゅうさかい)に滞在中の家康を護衛して、伊賀の加太(かぶと)峠越えに、無事三河へ帰還させた。これらの功によって物頭(ものがしら)に進み、遠州(静岡県)に8000石を領し、家康の関東入国後は、江戸城麹町口(こうじまちぐち)門(俗に半蔵門とよぶ)外に組屋敷(くみやしき)を拝領した。
[渡邉一郎]
(小和田哲男)
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