デジタル大辞泉
「木下幸文」の意味・読み・例文・類語
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きのした‐たかぶみ【木下幸文】
- 江戸後期の歌人。前名、義質(よしなお)。号、亮々舎(さやさやのや)、朝三亭。備中の人。澄月、慈延、のち香川景樹の門に入り、桂門十哲の一人。和歌の革新に努め、真情を飾らずに歌った生活歌「貧窮百首」で知られる。歌文集に「亮々(さやさや)遺稿」、随筆に「亮々草紙」など。安永八~文政四年(一七七九‐一八二一)
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木下幸文
きのしたたかふみ
(1779―1821)
江戸後期の歌人。備中(びっちゅう)国浅口郡長尾村(岡山県倉敷市)の農家に生まれる。同村の小野櫟翁(れきおう)に連れられて京都に上り、澄月(ちょうげつ)、慈延(じえん)に和歌を学んだが、のち香川景樹(かげき)(桂園(けいえん))の門人となり、熊谷直好(くまがいなおよし)と並んで桂園派の双璧(そうへき)と称された。直好は忠実に師説を祖述したが、幸文は景樹に反発することが多く、随筆『亮々(さやさや)草紙』(1820)の刊行をめぐっても問題があった。文政(ぶんせい)4年11月2日に大坂白子町の亮々舎(さやさやのや)で43歳で没した。没後に家集『亮々遺稿』が刊行されたが、集中の「貧窮百首」は幸文の名を不朽のものとした。未刊の著書に『万葉集註釈(ちゅうしゃく)』『古今集愚案』などがある。
[兼清正徳]
かにかくに疎(うと)くぞ人の成にける貧しきばかり悲しきはなし (「貧窮百首」のうち)
『兼清正徳著『木下幸文伝の研究』(1974・風間書房)』
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木下幸文 (きのしたたかふみ)
生没年:1779-1821(安永8-文政4)
江戸後期の歌人。備中国浅口郡に生まれる。若くして京都に出,はじめ澄月,慈延について歌を学んだが,20代半ばに香川景樹に入門,熊谷直好とともに桂園の双璧とされた。その後難波に住み,亮々舎(さやさやのや)と号した。〈かにかくに疎くぞ人のなりにける貧しきばかり悲しきはなし〉(《亮々遺稿》)を含む〈貧窮百首〉がよく知られている。家集に《亮々遺稿》,随筆集に《亮々草紙》がある。
執筆者:佐佐木 幸綱
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木下幸文
きのしたたかぶみ
[生]安永8(1779).備中,長尾
[没]文政4(1821).11.2. 大坂
江戸時代後期の歌人。通称,民蔵。号,朝三亭,亮々舎 (さやさやのや) 。若い頃京都に出て僧澄月,僧慈延に歌を学び,その後香川景樹に心服,文化1 (1804) 年に景樹の桂園門下となる。熊谷直好と並び桂園派の双璧。歌論,歌風において師をこえるところがあり,師とのあつれきもあったようである。のち大坂に出て歌の師となるが,約2年で死去。歌風は師の風を受けてさらに清新平明で,歌集『貧窮百首』 (08) は貧窮を歌い,その歌風をよく示している。家集『亮々遺稿』 (08) ,随筆『亮々草紙』 (21) がある。
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木下幸文
没年:文政4.11.2(1821.11.26)
生年:安永8(1779)
江戸中期から後期の歌人。幼名民蔵。名義質,義方など。朝三亭,亮々舎などと号す。備中浅口郡長尾村(岡山県倉敷市)の農家に生まれ,豪農小野櫟翁の庇護のもと和歌に開眼,上京して澄月,慈延,香川景樹の指導を仰ぐ。特に景樹門では重きをなしたが,師の感情的な疎隔に終生苦しんだ。また家庭的にも経済的にも恵まれず,不遇な一生を終えた。有名な「貧窮百首」もこの生活から生まれた。家集『亮々遺稿』,随筆『亮々草紙』,ほかに歌学書が若干あるが,文化初年から没直前まで書き継がれた日記は,幸文の人間性を余す所なく描いて圧巻である。<参考文献>兼清正徳『木下幸文伝の研究』
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木下幸文 きのした-たかふみ
1779-1821 江戸時代後期の歌人。
安永8年生まれ。文化元年京都の香川景樹(かげき)(桂園)に入門,熊谷直好(なおよし)とならび桂園派の双璧(そうへき)と称された。文政4年11月2日死去。43歳。没後出版の家集「亮々(さやさや)遺稿」中の「貧窮百首」はとくに名だかい。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。初名は義質(よしなお)。通称は民蔵。号は蓼園,朝三亭,亮々舎(さやさやのや)。
【格言など】人のいふ富は思はず世の中にいとかくばかりやつれずもがな(「亮々遺稿」)
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木下幸文【きのしたたかふみ】
江戸後期の歌人。名は義質。号亮々舎(さやさやのや)。備中(びっちゅう)の人。上洛し,後大坂に移る。澄月,慈延を経て香川景樹に入門。景樹とはしばしば意見を異にし,同門の熊谷直好を慕う。歌風は清新,家集《亮々遺稿》の中の貧窮百首は異色作。主著《亮々草紙》。
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