古代から近代にかけて,旅行者が携帯した米または干飯(ほしいい)を炊(かし)ぐための薪代を受け取って,宿泊させた宿屋をいう。木賃とは薪代のことで,木銭とも称し,これが宿賃となった。1611年(慶長16)の幕府法令は,木賃代を人は銭3文,馬は6文と規定するが,これは馬の使用湯量が多いためである。木賃の宿泊形式は,しだいに木銭米代形式(旅行者が宿屋用意の米を買って自炊し,その米代と薪代を支払う)から旅籠(はたご)形式(宿屋で食事いっさいを用意する)へと発達した。
執筆者:丸山 雍成 江戸時代の後期には大道芸人や日雇稼,人足などが常用した安宿も木賃宿といった。例えば1843年(天保14)の江戸では下谷山崎町などに木賃宿があり,乞胸(ごうむね)や願人などが定宿としたほか,巡礼などの旅行者が利用し,俗に〈ぐれ宿〉といわれていた。そこでは木銭はなく,屋根代として1日1人24文,布団借用者は別に16~24文を支払った。明治になっても安宿は木賃宿と称し,日雇人夫などに安い宿料で宿泊させた。現在,東京(ドヤと呼ぶ)や大阪では,このような安宿は特定地域に集中しているが,木賃宿の名称はあまり使用されない。
執筆者:南 和男
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野宿から旅籠(はたご)に移行する過渡期の宿泊所。元亀(げんき)(1570~73)から慶長(けいちょう)(1596~1615)のころの庶民の旅は、干飯(ほしいい)、米、大根漬けなどを携行し、宿泊所では湯をもらうだけであった。その燃料代つまり薪代(まきだい)・木銭(木賃)を払ったところから、その宿を木賃宿とよんだ。湯の使用量は人間よりも馬のほうが多いので、木賃も馬のほうが高く、1611年(慶長16)には人は銭3文、馬は6文と規定されたが、のちにその差は縮まった。また1665年(寛文5)には主人16文、従者6文。この主人と従者との差は1866年(慶応2)から廃止された。この木賃宿泊を一歩押し進めたのが木賃米宿泊で、あらかじめ宿泊所で用意された米を買って自炊し、木銭と米代をあわせて支払うものであった。しかし旅中での自炊はたいへんなので、しだいに菓子や酒食までも備えて泊める旅籠ができるようになった。木賃宿が旅籠に発達しても、屋根銭とかふとん代といって安い料金で泊める宿は残り、明治以降もそれを木賃宿と称し、いまも場末などに残っている。
[山内まみ]
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飯米のための薪代のみで宿泊できる簡素な宿。宿泊施設の最初の形態。干飯などを持参し自炊する。湯代・薪代のみを支払うことから木賃宿といった。江戸時代には一般庶民は食事提供のある旅籠(はたご)に泊まることが多く,利用者は貧困者・旅芸人・巡礼・乞食・助郷人足などであった。木賃は慶長年間には銭3文ほど。1658年(万治元)には薪代として銭6文であった。近代以降も貧困者には格好の宿泊施設として利用された。
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…ただし,この語が広く用いられるようになったのは昭和になってからで,明治における宿泊施設の一般的呼称は〈宿屋〉であり,法律上の用語としても宿屋が用いられた。明治時代には警察令による〈宿屋営業取締規則〉があり,同規則によれば,宿屋は,旅人宿,下宿,木賃宿の3種に分類されていた。こうした名称と分類は大正時代まで残っていたようで,昭和になってから宿屋という言葉がしだいに廃れ,代わって旅館が広く用いられるようになった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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