東漸寺跡(読み)とうぜんじあと

日本歴史地名大系 「東漸寺跡」の解説

東漸寺跡
とうぜんじあと

[現在地名]根占町川北

浜馬場はまんばばの東側山麓一帯にあったとみられる真言宗寺院。宝資山光寿院と号し、本尊は虚空蔵菩薩。大乗だいじよう(現鹿児島市)末で、古くは東禅寺・東善寺と記されたという。開山は祐印で、開基は禰寝家支族山本某。円妙禅門・知泉禅尼夫婦の肖像を安置していた。山川邑正龍寺来由記を按ずるに、山本某は小根占こねじめ山川やまがわとの間の海上で「大棘鬣魚」を釣上げ、その魚腸を割いて黄金を得た。この黄金により小根占に東漸寺、山川に正龍しようりよう(現山川町)創建し、夫婦は出家して円妙禅門・知泉禅尼と称したと伝える。往古小根占郷の祈願所は勝雄かつお寺であったが、文禄四年(一五九五)禰寝氏吉利よしとし(現日吉町)移封後に廃壊し、のち島津光久がこの地を訪れた際に当寺を祈願所として勝雄寺の地を与えたという(以上「三国名勝図会」)


東漸寺跡
とうぜんじあと

[現在地名]東区泉二丁目

鍋屋なべや町裏の北側、普蔵ふぞう寺の東隣にあたり、法音(報恩)山と号し、もと真宗西本願寺の直末。徳川義直の執政平岩親吉の室休清院の菩提所で、初め甲府にあって専修せんしゆう坊と称したが、慶長一二年(一六〇七)清須きよす(現西春日井郡清洲町)へ、さらに名古屋遷府でこの地に移り、延宝三年(一六七五)東漸寺と改めた(府志、府城志、尾張志)


東漸寺跡
とうぜんじあと

[現在地名]東山区粟田口東大谷山町

現在の大谷おおたに墓地にあった寺。天正一八年(一五九〇)僧真寂が建立。日蓮宗本能ほんのう(現京都市中京区)末であった。京都三長者の一、茶屋四郎次郎家の菩提寺。檀家は茶屋一家だけで、「青蓮院日記」元和八年(一六二二)八月二日条に「東漸寺地子、始而持参」とみえ、寺地は青蓮しようれん(現東山区)領であった。「都花月名所」に「泰山府君 洛東双林寺の上、東漸寺の庭中にあり」とみえる泰山府君は桜の名木で、「京都府地誌」も「廃東漸寺、長楽寺の南、山陵ニアリ。


東漸寺跡
とうぜんじあと

[現在地名]天童市貫津 笹

上貫津かみぬくづ集落より累石風穴として知られるジャガラモガラへ向かって八〇〇メートルほど林道を登ったところにある。右手の沢からは清冽な清水が湧出ているが、林道を挟んで左手階段を上りつめた段丘上に一間四方宝形造の観音堂があり、その周辺が寺跡である。観音堂の前に高さ一四二センチの凝灰岩製宝塔が建つ。風化による破損がはなはだしいが、相輪を除く基礎・塔身・屋根・露盤ともに一石より刻出され、時期は平安末期と推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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