東長町(読み)ひがしながまち

日本歴史地名大系 「東長町」の解説

東長町
ひがしながまち

[現在地名]弘前市東長町

城の東側に位置し、三の郭東御門から土淵つちぶち川に至る東西に延びる道筋町並。北は蔵主くらぬし町・長坂ながさか町・笹森ささもり町に接し、土淵川沿いの東照とうしよう宮や薬王やくおう院とも隣接。南は百石ひやつこく町・百石町小路・元寺町もとてらまち小路・元寺町と接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)では、現町域の西側は町屋、東側は侍屋敷が配置される。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)よこ町とあり五〇軒が数えられ、武家・町家入交じりの構成ではあるが、丹波屋・大坂屋・尾張屋など屋号をもつ商家が多い。「平山日記」によれば、同年の寺町大火は横町算盤屋久兵衛宅から出火したとある。慶安二年の絵図によれば、久兵衛は大坂屋久兵衛をさし、寺町にきわめて近接した地に屋敷をもっている。大火後町域は東側に延び、和徳わつとく町との間に新道が切開かれ(平山日記)、寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、土淵川を越えた地域に新派屋敷として三一軒の屋敷割がなされ、武家のほか町道(同)心・大工など一三名が記される。また町内には四二軒が数えられ、ほとんどが町屋であるが、預人栗原泰芸が町内の薬王院入口付近に居住。


東長町
ひがしながまち

[現在地名]和歌山市東長町一―一一丁目

上町うわまち筋の東端からほぼ東南行し、砂山すなやまに至る町で、文政一三年(一八三〇)の丁名増改時略図(田中家蔵)に「東長町南北通り、浜之丁ヲ籠、凡六百廿間程」と記す。もと北端をはまノ町といったが(続風土記)、浜ノ町を含め同年に一―一一丁目に分けた(「御触書写」道成寺文書)。二丁目は能登のと(続風土記)能登殿のとどの(紀藩街官司秘鑑)ともいった。三―五丁目付近の西裏は下級武家町で、通りの東側はおもに武家屋敷であった。

二丁目東の正住しようじゆう(日蓮宗)は古く真言宗で魚の店うおのたな(北町一丁目)にあったが荒廃し、文明年中(一四六九―八七)京都妙覚寺日住が再興して法華宗とした。


東長町
ひがしながちよう

[現在地名]大垣市東長町・高橋町たかはしちよう

大垣城の東に位置する南北に長い士屋敷地域。東は東代官ひがしだいかん町・高橋町、北は伝馬てんま町、西は牛屋うしや川を隔てて清水しみず町、もと高橋村のうちで、寛永期(一六二四―四四)にはすでに侍町になっていた(寛永城下絵図)。享和四年(一八〇四)の藩士家並帳(林文書)には高橋長町とみえる。家数は寛永期一一、元禄期(一六八八―一七〇四)四四、寛延三年(一七五〇)二五。


東長町
ひがしながまち

[現在地名]福知山市字東長

城郭の北にある大手門より、まっすぐ北に延びた長町のうち東側を称する。呉服町ごふくまちの一本西側の通りである。

有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図では、長町のうち京町きようまちより魚屋町うおやまち(のちの魚ヶ棚通)までを上長町、その北、職人町しよくにんまち通までを中長町、さらに下魚屋町通(のちの広小路)までを下長町と記す。江戸時代中期まではこの上中下の三区分がなされていたらしいが、中期以後東側を東長町、西側を西長町縦割りの行政区分にしたようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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