松代城跡(読み)まつしろじょうあと

国指定史跡ガイド 「松代城跡」の解説

まつしろじょうあと【松代城跡】


長野県長野市松代町にある城跡指定名称は「松代城跡 附新御殿跡(つけたりしんごてんあと)」。海津(かいづ)城と呼ばれていた。城地は、東・南・北の三方連山を負い、西から北に展開する善光寺平は、千曲川によって限られている。規模は現在の松代町松代の大部分を囲い込む壮大なもので、千曲川を背にして方形本丸を置き、その南に円をえがく形で二ノ丸、三ノ丸が配され、三ノ丸の西には花ノ丸が造られた。丸馬出しと三日月堀という甲州流の築城術も認められる。各郭(くるわ)は循環する堀で囲まれ、本丸はもと土塁で囲まれていたが、1599年(慶長4)ごろ、田丸直政によって石垣に改められたという。これらの石垣は現在、4つの櫓(やぐら)台とともにほぼ旧状をとどめているが、門枡形は改変され、本丸をめぐる堀は埋め立てられている。二ノ丸・三ノ丸・花ノ丸も鉄道敷きなどによって破壊されている部分が多いが、本丸の堀とともに旧状をたどることができる。また、1863年(文久3)に三ノ丸に南接して、城外の藩学・文武学校の東隣に御殿が新造され、新御殿(真田(さなだ)邸)と呼ばれた。新御殿は、木造瓦葺き平屋建て、一部2階建てで、建物全体について若干の改変のあとが認められるが、新御殿南の園池や土蔵3棟なども現存している。築城時期は不明であるが、武田信玄が信濃侵攻を開始し、北信濃の川中島地域をめぐる越後上杉謙信との争い(川中島の戦い)に発展したころ、信玄が千曲川河畔に築かせたという。1561年(永禄4)には城代春日(高坂)昌信が上杉氏の侵攻に対して籠城し、信玄本隊の到着を待ち、八幡原で両軍の決戦が行われた。1582年(天正10)、武田氏が滅ぶと、織田信長の部将森長可(ながよし)が入ったが、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれるや、上杉景勝が川中島の地を治め、村上景国に守らせた。関ヶ原の戦いののち、徳川家康は森忠政を川中島に封じ、海津城は待城(まつしろ)と改められた。1603年(慶長8)、松平忠輝が入部し、松城と改称。1622年(元和8)、真田信之が入城して以後、松代藩の藩庁が置かれ、代々の真田氏の居城となり、10代幸民の時、明治維新を迎えた。この間、城の字を代と改めて松代と書くようになった。松代城はつねに北信濃の中心として戦国から幕末まで続いた城として貴重であり、また、城外に造られた新御殿は数少ない城郭御殿建築の遺例の一つであることから、1981年(昭和56)に国の史跡に指定された。現在は櫓門・木橋・石垣などが復元されている。JR長野新幹線ほか長野駅から川中島バス「松代」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本歴史地名大系 「松代城跡」の解説

松代城跡
まつだいじようあと

[現在地名]松代町松代 城の腰

松代町の中心にあり、標高約三八四メートル、南北は急峻な崖となり北崖下を渋海しぶみ川が流れる。頂上の東西約二五メートル、南北約一〇メートルの平坦地は本丸、西の峰は東西約一四メートル、南北約八メートルで二ノ丸、東の峰は東西約一三メートル、南北約一〇メートルで三ノ丸にあたる。二ノ丸の西方に空堀がある。築城の時期は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「松代城跡」の解説

松代城跡

(長野県長野市)
信州の史跡百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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