松山村(読み)まつやまむら

日本歴史地名大系 「松山村」の解説

松山村
まつやまむら

[現在地名]富士吉田市松山・上吉田かみよしだ二丁目・たつおか三丁目・ときわだい一―二丁目・新西原しんにしはら一―五丁目

上吉田村より西に向かう鎌倉街道が集落の北側を通り、北東は下吉田村。南は富士山入会山に続き、西はけん丸尾上で船津ふなつ(現河口湖町)新倉あらくら村と境する。集落中央を桂川支流神田堀かんだぼり川が北流する。「勝山記」天文五年(一五三六)条に小林形部三もん(刑部左衛門)が「松原サキ」に屋敷を建てたとみえる。松原崎まつばらさきの小字は松山地内の神田堀川左岸に残る。同八年条には一〇月小林氏が「松山ヲ御立テ候」とみえ、河口かわぐち湖南岸(現河口湖町船津付近)に本拠を置いた小林氏の一族が東方に勢力を伸張していった様相が知れる。同二〇年一月二四日には「刑部殿ノ家」を残して「松山ノ宿」が焼けたとの記述があり、小林氏の居館を中心に集落が整えられていたと推察される。


松山村
まつやまむら

[現在地名]八日市場市松山

大浦おおうら村の南に位置し、多古銚子たこちようし道沿いに集落が点在する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属し、在地領主として千葉氏族の椎名氏が知られる。神代本千葉系図は千葉介常繁(常重)の庶子である椎名胤光の子息に松山次郎胤平を載せ、小次郎胤澄・小次郎太郎胤村・又太郎胤継と継いで、その支流には平木・三与河・飯塚の諸氏がある。中宿なかじゆく松山城跡の遺構が残る。天正一九年(一五九一)一一月の徳川家康寄進状写(松山神社文書)に松山郷とみえ、松山神社は同郷の内で一〇石を寄進されている。


松山村
まつやまむら

[現在地名]宇土市松山町

北は古保里こおざと村・境目さかいめ村、西は下松山しもまつやま村、南は柏原かしわばら(現宇土郡不知火町)、東は高低があり、西・南・北は平坦な地形である。北西から南へ薩摩街道が通じる。村の中央に桶底おけそこ、東に居屋敷いやしき、西に八反田はつたんだ、南に諏訪すわ、北に中柳町なかやなぎまち、南西に松木迫まつきざこ、南東に深迫ふかざこなどの字地がある(郡村誌)。永享九年(一四三七)九月五日の富野惟世宛行状(矢津田文書)では矢津田孫太郎に松山村内の一町二丈を宛行っている。


松山村
まつやまむら

[現在地名]宮古市松山

閉伊へい川の南岸にあって、千徳せんとく村の南西に位置。周辺の微高地には土師器須恵器などの出土する遺跡が点在、またたて山の中腹にある松山遺跡からは古代族長クラスの持物と思われる蕨手刀が発掘されている。また集落の西に連なる尾根には松山館跡がある。「参考諸家系図」によれば江戸時代初期、袰綿氏が盛岡藩初代藩主南部信直から袰綿ほろわた(現下閉伊郡岩泉町)と当村に四〇〇石の知行地を与えられているが、いつの頃からか四戸・野田の両氏に分割給付された。


松山村
まつやまむら

[現在地名]浅羽町梅山うめやま

梅田うめだ村の東側に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田方一七九石余・畑方一七石余、横須賀藩領。天保郷帳では高二二一石余。領主の変遷は同村に同じ。「遠淡海地志」には「平民村入合」とあり、家数三〇。水害に見舞われることが多く、元禄一二年(一六九九)には潮入りにより高一九六石余のうち一〇〇石余が損毛引となり、天保七年(一八三六)にも風損などのため同年の納高は二三石余であった。


松山村
まつやまむら

[現在地名]昭和村松山

野尻のじり村の北西一五町に位置し、戸中とちゆう(七五一メートル)の山麓に開かれた村で、野尻川に沿い、田島たじま街道が通る。この街道には綱木つなぎと称する難所があり、冬季にはしばしば交通を断つことがある。その折の間道として馬追まおい峠を越えて玉梨たまなし(現金山町)に出た(新編会津風土記)。「塔寺長帳」によれば、永禄九年(一五六六)に「ゆわせちん二月廿日松山のゆふかひおきすきなされ、よこたおまきおとし」とあり、この松山の館は村の南東三町余に立地する野尻の牛首うしくび城をさすと考えられる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「松山 七十石四斗二升 木本左平二」とある。


松山村
まつやまむら

[現在地名]新潟市松山

直り山なおりやま村の南にあり、東は細山ほそやま村、西は西山にしやま新田、南は平山ひらやま集落(現中蒲原郡横越村)。砂丘列の東端に立地。慶長一七年(一六一二)吉沢理左衛門によって開発されたと伝え、以後同氏が名主を世襲した。正保国絵図では高一〇六石余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると二八軒・一九六人。天明二年(一七八二)の組立帳(新田彬氏蔵)によれば役石一二九石四斗余、万雑三貫二六〇文ほど。明治九年(一八七六)には六八軒・四〇六人。


松山村
まつやまむら

[現在地名]加賀市松山町

動橋いぶりはし川中流右岸、桑原くわばら村の対岸にあり、村南西端で動橋川と那谷なた川が合流する。東部は丘陵地で松を植えた山が多かったので村の名が生じたという(加賀志徴)。中世は額田ぬかた庄のうち。「十輪院内府記」文明一二年(一四八〇)七月九日条に「自賀州松山僧上洛」とあり、この僧は額田庄代官秀元の得分「百石百貫」は承服しがたいので「百石百五十貫」に増額してほしいとの要求書を持参した。


松山村
まつやまむら

[現在地名]氏家町松山

狭間田はざまだ新田の北、南部を奥州街道が通り、中央部を市の堀いちのほり用水が流れる。中世に松山丹波守の居城(松山城)があったが、天文一八年(一五四九)五月女さおとめ(現喜連川町)の戦いで宇都宮勢が那須勢に大敗すると城は廃城となったという。慶長一五年(一六一〇)塩谷氏の旧臣阿弥筑後が字中道なかみちに来て当地を開拓したと伝える。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、安永三年(一七七四)上知されて再び宇都宮藩領、嘉永三年(一八五〇)幕府領となり幕末に至る。慶安郷帳では高三八石余、田方三石余・畑方三五石余。


松山村
まつやまむら

[現在地名]村上市松山・みどり町三丁目・瀬波温泉せなみおんせん二丁目

北西は浜新田はましんでん村、南は天王てんおう山を隔てて七湊ななみなと(現岩船郡神林村)に接する。北東は村上町。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分松山いゝの村 下」とみえ、本納三四石七升・縄高八六石二斗九合二勺、家三軒とあり、周辺を野に囲まれる。また山居さんきよ山南麓に「松山村」が記される。正保国絵図では「松山村」とあり、高一〇〇石余。

寛永一九年(一六四二)の南桃川組村々年貢諸役割付帳(板垣総兵衛氏蔵)には小物成運上として船頭米・四分一銀・鉄砲役・潟鉄砲役が記される。


松山村
まつやまむら

[現在地名]姫路市林田町松山はやしだちようまつやま

山田やまだ村の北西に位置し、揖東いつとう郡に属する。北は宍粟郡狭戸せばと(現安富町)、南西は六九谷むくだに村枝郷の山下やました村。村内を林田川が南流する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は大堤おおづつみ村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(林田郷土史)では高三一二石余。正保郷帳では田方一九三石余・畑方六六石余。天保郷帳では高六二九石余。明治初期、山下村の一部の上山下村を編入。


松山村
まつやまむら

[現在地名]苅田町松山・松原町まつばらちよう鳥越町とりごえちよう

苅田村の北、京都郡の西端、企救きく郡との境に位置し、周防灘へ突き出た小半島末端の山地西側に集落が形成されている。享禄元年(一五二八)一〇月二八日の大内氏奉行人連署奉書(萩藩閥閲録四)に「仲津郡松山本田五町」とみえ、もと塩田勢兵衛尉領であったが井上新三郎に給与されている。しかし仲津なかつ郡とされており、当地に比定しうるか定かでない。当村は長門の牢人伊藤次郎兵衛が元和五年(一六一九)に細川忠興領の当地へ移住、新田開発を許可されて開いたという(「中国牢人申候覚事」伊藤家旧蔵文書など)


松山村
まつやまむら

[現在地名]鹿角市十和田末広とわだすえひろ 松山一―三班

現鹿角市西端部、米代川が鹿角盆地を流れ出た辺りに位置し、下流に土深井どぶかい村がある。山麓沿いに鹿角街道が走る。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高一八七石八斗余でうち蔵分一八三石余、馬一一四匹、民戸六三軒。西は秋田藩領に接するため境目番所があり、万延元年(一八六〇)の両鹿角扈従日記(花輪町誌編纂資料)に、

<資料は省略されています>

とみえる。


松山村
まつやまむら

[現在地名]江戸崎町松山

羽賀はが村の南に位置し、小野おの川左岸にある。古代には常陸国の信太しだ軍団が、松山・君山きみやまの台地に置かれ、信太・筑波・真壁まかべ河内かつちの四郡を所管したといわれる。元禄郷帳の村高は六五六石余、幕末は旗本山田氏領四五六石余、下総関宿藩領二〇二石余(各村旧高簿)。台地に慶安四年(一六五一)創建と伝える鹿島神社があり、境内に寛永六年(一六二九)三月銘の青面金剛尊像がある。


松山村
まつやまむら

東は高畑たかばた(現八開村)、西は木曾川を越えて美濃こま(現岐阜県)に接する川沿いの僻村。「徇行記」によれば、概高一四四石余のうち一二八石余は正保三年(一六四六)の木曾川洪水で禿地となったため免ぜられ、一六石余は織田信長時代から当地を本拠とする横井一族の横井作左衛門の給知。畑は二町七反七畝余。「寛文覚書」に戸数一五、人数一四三とある。

「徇行記」は四方を川に囲まれた当村について「実ニ孤島ノ如シ」とし、「畠ハカリニテ木曾川五合目ノ水潦ニハ村内泛溢セリ、サレハ漸々泥塗馳入リ肥饒ノ土地トナレリ、然シ頽レ地多キ所ユエ残リ高ニ準シテハ戸口多ク、耕田不足ナルニ因テ秋江・大和田・日原村アタリノ田畝ヲ承佃スト也、農屋ハ南ヨリ北ヘ向、堤傍ニ散在セリ、皆小百姓ナリ」と記す。


松山村
まつやまむら

[現在地名]高取町大字松山

田井たいしよう村の東方に位置し、東は吉備きび村。「大和志」に「松山属邑一」とあるのは奥羽内おくほうちか。伝承では奥羽内から松山に移住したともいう。昔時は「松山千軒」と称し、人家も多かったらしい。鎮守春日神社には元和元年(一六一五)以降の宮座文書「松山村メウシウノ日記」がある。


松山村
まつやまむら

[現在地名]大野町松山

志名しな村の北に位置する。慶長郷帳に松山村とみえ、高四九七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では幕府領で、田四五七石余・畑四〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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