松川村(読み)まつかわむら

日本歴史地名大系 「松川村」の解説

松川村
まつかわむら

[現在地名]東山町松川

南流する砂鉄さてつ川沿いにあり、南は門崎かんざき(現川崎村)。東端に弓折ゆみおり(四三三・八メートル)がある。今泉いまいずみ街道が走り、村のほぼ中央部に宿がある。古くは川口かわぐち村または川崎かわさき村とよんだとされるが定かではなく、「安永風土記」には愛宕・御嶽みたけ両社地内に一夜のうちに松数十本が降り生えたことにより松川村と改められたとあり、坂上田村麻呂の帰途を村人が川辺で待っていたことから待ち川、さらには松川となったとも伝える。明応八年(一四九九)一二月一三日の薄衣状(奥羽編年史料抄)に「松河」とみえる。天文一三年(一五四四)八月七日の葛西高信宛行状(気仙沼熊谷文書)に「松川村」とあり、同村のうち四千刈が軍功により熊谷又次郎に宛行われている。元亀二年(一五七一)には大崎氏との佐沼さぬま(現宮城県登米郡迫町)での合戦の功により当村二千刈が熊谷図書助に加増されている(同年七月二日「葛西晴信宛行状」同文書)。天正一六年(一五八八)六月二日には浜田安房守の反乱の際、気仙勢の広田左衛門を討取った功により、金野次郎左衛門に松川内三千刈が加増分として宛行われた(「葛西晴信知行宛行状」本吉昆野文書)。いっぽう永禄六年(一五六三)二月一一日の石河肥後守宛の葛西高信宛行状(水沢石川文書)には石川(河)氏の本領として磐井郡内松川村があげられている。同氏は三室平みつむろひら奈良坂ならざか館を本拠としたとされ、天正一九年九月九日付の石川系図抄(同文書)では天文年中将軍足利義輝から松川村五万刈を与えられて葛西氏家臣とされたとされる。

正保郷帳に松川宿とみえ、田三二貫九〇七文・畑三三貫九九一文、ほかに新田三貫六七三文があり、水損と注記される。寛文八年(一六六八)の高人数改帳(小野寺文書)では人頭九四、人数一千二三七。

松川村
まつかわむら

[現在地名]下郷町大松川おおまつかわ

赤岡あこうか村の南、阿賀川支流観音かんのん川右岸の段丘上に立地。会津若松から下野宇都宮へ至る南山松川みなみやままつかわ通の宿駅村。松河とも書く。和田原わだはらなどに縄文土器が出土する遺跡がある。天正一九年(一五九一)の検地に対し赤岡館主・小坂こさか館主らが反対し赤岡騒動が起きたが、のちのはら村にあった松川館主佐藤義久は検地役人側に荷担、騒動後小坂館主帯刀の領地を与えられたという(「佐藤家譜」田島町史)。江戸時代には南山御蔵入領松川組に属し、郷頭が置かれていた。郷頭には正保二年(一六四五)佐藤義久の子義春が任じられている(佐藤家文書)。寛永九年(一六三二)の松川村当請定(下郷町史資料集)では高六一二石余、免三ツ七分五厘。

松川村
まちがーむら

[現在地名]那覇市松川まつがわ・松川一―三丁目・繁多川はんたがわ三丁目

安里あさとう村の東、首里城のある台地の南麓に位置し、北は真嘉比まかび村・首里城下に接する。小字松川原まちがーばるに集落が形成されていた。真和志まーじ間切所属。村内を金城かなぐしく川・真嘉比まかび川が流れ、小字二又原ふたまたばるで合流し安里あさと川となってとまり港に注ぐ。また首里と那覇を結ぶ道が村内を通り、真嘉比川に架けられた通りの橋を茶湯崎ちやなざち橋という。かつてこの辺りまで船がさかのぼってきたといわれ、一八世紀の政治家蔡温はその著作「独物語」で、「茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきてこの地で交易ができる。

松川村
まつかわむら

[現在地名]松川村松川

現松川村の北部に位置し、川・高瀬たかせ川による広い沖積地に村居がある。

松川の名の起源は定かでない。松川の名は、永正一一年(一五一四)の「続日域洞上諸祖伝」の「観勝院功巌策禅師伝」に「松河郷」とみえるのを初見とする。下って、天正六年(一五七八)二月の下諏訪春秋両宮御造宮帳によれば、「秋宮外之籬五間造宮 仁科内大和田・松川之郷中ニ而立之」とし、大和田おおわだ郷とともに諏訪社下社秋宮の造宮所役を課せられていたことが知れる。大和田は後に松川村の枝郷になるのであるが、この頃は並び称せられていた。なお大和田郷については、これより先明応一〇年(一五〇一)二月一一日の三宮穂高社御造宮定日記に「御玉垣一方半 北大和田所役」とみえ、穂高ほたか神社の造宮所役を課されており、これを初見とする(北大和田を北和田とも称する)

松川村
まつかわむら

[現在地名]中野市大字中野

中野村の北に位置し、東ははこ山によって戸狩とがり村と境し、北には中野村しん田(栗和くりわ田)、西は吉田よしだ村に接している。

村名の初出は、慶長七年(一六〇二)森忠政の川中島四郡検地打立之帳で、村高が一三五石九升である。慶長九年松平忠輝領の時は、家臣松平信直(孫三郎)知行地となり、草山年貢三斗を納めている(信州四郡草山年貢帳)。福島正則支配の後は幕府領となり、寛文五年(一六六五)中野代官天羽七右衛門の検地により、村高(田・畑・屋敷・山)二〇五石七斗五升が検出された。

松川村
まつかわむら

[現在地名]守門村松川

破間あぶるま川の支流松川川が左岸に合流する河口にある。松川川の対岸須川すがわ村の向松川むかいまつかわ。西の破間川対岸は須原すはら村・大原おおはら新田、上流は細野ほその村。正保国絵図に村名がみえる。天和三年郷帳では高一五石八斗余。同年(一六八三)検地帳(守門村史)では田一反余・畑二町二反余、名請人は七人。青苧畑の所持者は、名請人のうち屋敷持の二人。寛保二年(一七四二)の幕府より被仰渡(会津藩家世実紀)によると、江戸富沢とみざわ町の新田師越後屋庄左衛門が字松川原の地に五町歩の開発を願出ている。

松川村
まつかわむら

面積:四六・六四平方キロ

北安曇郡の南部に位置し、東は高瀬たかせ川を隔てて池田いけだ町に接し、西は後立山うしろたてやま連峰の前山をもって大町おおまち市に接する。西半は山地で、東半はその山地の浸食により流下した土石による神戸原ごうどはら扇状地と、その東の高瀬川川による堆積平地である。住居地は扇状地の扇端部から平地にかけてである。西部の山地は山が険しいため森林・原野となっており、東部の平地は水田地帯として開けている。

松川村
まちがーむら

[現在地名]那覇市宇栄原うえばる

小禄うるく間切の南端に位置し、北東は宇栄原ういーばる村、南は豊見城とうみぐすく間切我那覇がなふあ村・名嘉地なかち(現豊見城市)。村名は「琉球国由来記」にみえ、尚貞王五年(一六七三)の小禄間切新設以後の成立と推定される。同書に御嶽は見当らないが、「松川御嶽之殿」があり具志ノロの祭祀管轄で、夫地頭松川大屋子の祭祀品が定められている。

松川村
まつかわむら

[現在地名]津久見市上青江かみあおえ 松川

奥河内おくがわち村の北、青江川上流左岸の山間に位置し、東は葛畑かずらはた村。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に松川村として高二石余(田方三斗余・畑方二石三斗余)とみえ、村位は下。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳でもほぼ同高で、本高二石余・出来高七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松川村」の意味・わかりやすい解説

松川〔村〕
まつかわ

長野県西部,松本盆地の北部にある村。東部は南流する高瀬川の扇状地で,安曇野 (あずみの) の一部を占め,主として米作が行われる。川沿いを JR大糸線,国道 147号線が走り,西部は飛騨山脈の前山で,有明山,清水岳などが迫る。面積 47.07km2。人口 9599(2020)。

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