桐生(市)(きりゅう)(読み)きりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桐生(市)(きりゅう)」の意味・わかりやすい解説

桐生(市)(きりゅう)
きりゅう

群馬県東部にある機業都市。1921年(大正10)市制施行。1933年(昭和8)境野(さかいの)村、1937年広沢(ひろさわ)村、1954年(昭和29)梅田、相生(あいおい)の2村と川内(かわうち)村の一部、1955年毛里田(もりた)村の一部を編入。1959年にはついに県境を越えて栃木県足利(あしかが)郡菱(ひし)村を編入。2005年(平成17)勢多(せた)郡新里村(にいさとむら)、黒保根村(くろほね)をみどり市とはさんだ飛び地として編入。市街地は足尾(あしお)山地の南西麓(ろく)で渡良瀬(わたらせ)川に臨み、北東からの桐生川がこれに注ぎ、その谷口集落様相を示している。交通が便利で、JR両毛(りょうもう)線、わたらせ渓谷鉄道、東武鉄道桐生線、上毛電気鉄道(じょうもうでんきてつどう)が通じ、国道50号、122号、353号も走り、バス網も発達している。

 産業の特色は絹織物製造工業で、織都にふさわしく絹織物の景気いかんが市民の全経済生活を支配する。その起源は古く、平安時代に布織物、室町時代に仁田山絹(にたやまぎぬ)を産して取引され、1590年(天正18)関東が徳川氏の領地になると、この地の支配者が桐生天満宮の社前から南に桐生新町(現在の商業地域)を建設して絹と絹織物を扱い、1646年(正保3)からは5、9の日を市日(いちび)とする絹市の六斎市(ろくさいいち)が開かれた(のち市日は3、7日に変更)。一方、絹織物は幕府の保護を受け、京都西陣(にしじん)の技術を導入、天保(てんぽう)年間(1830~1844)には分業化して、機屋(はたや)が生まれ、賃織(ちんおり)とともに発展してきた。これは、桐生が養蚕、製糸地帯を控え、桐生川などの水利に恵まれた立地条件の優位性によるといえる。明治、大正と進むにつれて力織機と工場が主体になった。現在は内需物の帯地(おびじ)と高級御召(おめし)の着尺(きじゃく)、輸出物の紋襦子(もんじゅす)、富士絹、人絹などがおもである。しかし、繊維工業は停滞ぎみで、最近では機械金属工業が基幹産業となっており、部品加工製造が盛ん。また、地場産業としてパチンコ台製造があげられる。天満宮の北に群馬大学工学部があり、桐生が岡公園、水道山、彦部家住宅などは市民の憩いの場となっている。このほか、国指定重要文化財の旧群馬県衛生所(現在は桐生明治館)や大川美術館がある。また、日本の近代化の歴史を示す近代化遺産の保存に努めていて、群馬大学工学部同窓記念会館、水道山記念館、飯塚織物(MAEHARA 20th)工場(以上、国登録有形文化財)、桐生倶楽部(くらぶ)会館(市指定重要文化財)などが残っている。製織業で栄えた桐生新町の町並みは、2012年、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。面積274.45平方キロメートル、人口10万6445(2020)。

[村木定雄]

『『桐生織物史』全3冊(1935~1940・桐生織物同業組合)』『『桐生市史』全4冊(1958~1971・同書刊行委員会)』『『桐生の今昔』(1958・桐生市)』『『桐生織物史 続巻』(1964・桐生織物同業組合)』


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