梅木村
うめぎむら
[現在地名]中伊豆町梅木
大見川と支流冷川の合流地点左岸にあり、大見川の東対岸は八幡村。寛文四年(一六六四)の検地帳には下梅木村と記されていたという(増訂豆州志稿)。上・下に分れた時期があったようで、天保一五年(一八四四)の村々様子大概書(江川文庫蔵)では上・下の二村となっている。延宝四年(一六七六)の高二四四石余(「伊豆国中拾組高寄帳」石橋家文書)、元禄(一六八八―一七〇四)初年の新田高九石余(元禄初年高帳)。
梅木村
うめのきむら
[現在地名]新津市梅ノ木
信濃川の自然堤防上に細長く延びる村で、北は小戸新田の小屋場。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「四百九拾弐石八斗六升 古津梅木 島津村」とあり、同一〇年の給知方村々高目録(同書)には「八拾八石六斗五升八合 水入荒 梅之木村」とある。同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)によれば、出戸村とともに四斗の炉役が三軒に課されている。
梅木村
うめのきむら
[現在地名]鏡村梅ノ木
増原村の南にある山間の小盆地にあり、西方蟹越を経て中追村(現吾川郡伊野町)に至る。領家郷一四ヵ村の一で「土佐州郡志」には「当増原西、東限加津良山・登石山、西限成山・中追、南限小山、北限増原、東西四十町余南北十五町余、(中略)其土黒」と記す。
永禄四年(一五六一)本山氏と長宗我部氏が対立した際、大黒神次郎は長宗我部氏に従って戦功をあげ、元親から「梅木名」を与えられた(同年五月二六日付「長宗我部元親所領宛行状」北野文書)。
梅木村
うめきむら
[現在地名]中条村大字日下野
念仏寺村の西に接する。村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「四百三石五斗七升 梅木村」とある。村名となった梅木は鬼無里村(現鬼無里村)へ越える岩井堂峠下にある。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)には、枝村として下条村・上下条村・大柿村など一一ヵ所を記している。そのうちに城越村(現城ノ腰)があって、中世、春日氏が領有した当時の出城と考えられる(長野県町村誌)。高地性の農山村で、作物は念仏寺村と同じく雑穀・麻が中心であった(上水内郡誌)。
梅木村
うめのきむら
[現在地名]豊後高田市梅ノ木
一畑村の南西、都甲川上流左岸に位置する。江戸時代の領主の変遷は高田村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三九五石余、家数六三(うち百姓二〇、隠居・名子・牛や・庭や四三)・人数一〇六(うち百姓二〇・名子四)、牛一六・馬一。正保郷帳では都甲庄に属し、田方二〇九石余・畑方八三石余、茅山・柴山・新田がある。
梅木村
うめのきむら
[現在地名]松山市梅木町
松山市域の東北端に近い山村。高縄山塊の西南部にあたり、三〇〇―五〇〇メートルの山地が連亘し、高原状を呈する。人家は渓谷に沿ってわずかに存在し、大部分は草原と山林に覆われている。東は湯山村、西は恩地村、南は上総村、北は宮内村(現北条市)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の風早郡の項に「梅木村 芝山有、林少有」とある。
梅木村
うめのきむら
[現在地名]緒方町柚木 梅木
柚木村の南にある。「豊後国志」に梅木とみえる。旧高旧領取調帳では高四七石余。安永七年(一七七八)には冬原組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。明治八年(一八七五)尻井村など二ヵ村とともに柚木村に合併。
梅木村
うめぎむら
[現在地名]御船町滝尾
東は水越村、西は横野村に接し、御船川が東西に流れ、下梅木で支流八勢川が合流する。慶長国絵図に村名がみえる。木倉手永に属し、「国誌」は小村として上梅木村・下梅木村・竹迫村を記す。
梅木村
うめぎむら
[現在地名]矢部町杉木
杉村の東に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に属し、のち旧に復した。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高一三四石余、田畝四町九反余・畑畝四町四反五畝余、竈数一四・男三五・女二三、牛三一・馬五六。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 