楊炎(読み)ヨウエン(英語表記)Yáng Yán

デジタル大辞泉 「楊炎」の意味・読み・例文・類語

よう‐えん〔ヤウ‐〕【楊炎】

[727~781]中国政治家。鳳翔(陝西せんせい省)の人。あざなは公南。徳宗に召されて宰相となり、780年、戸税・地税からなる両税法施行安史の乱後の国家財政を立て直したが、のち徳宗の信任を失い、左遷のうえざんによって殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「楊炎」の意味・読み・例文・類語

よう‐えんヤウ‥【楊炎】

  1. 中国唐の政治家。字は公南。鳳翔(陝西省)の人。徳宗の時宰相となり、崩壊した律令制による均田、租庸調制に代わって資産多寡によって夏秋二期に納入する両税法を採用した。(七二七‐七八一

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改訂新版 世界大百科事典 「楊炎」の意味・わかりやすい解説

楊炎 (ようえん)
Yáng Yán
生没年:727-781

中国,唐代の政治家。両税法の創始者。字は公南。鳳翔天興(陝西省)の人。河西節度使掌書記をふりだしに,中央政府に入っては中書舎人をつとめ,常(じようこん)とともにみごとな制誥(せいこう)を起草して〈常楊〉と並称されたが,同郷の宰相元載の失脚に連座して湖南に左遷された。徳宗の即位により宰相に抜擢ばつてき)され,翌780年(建中1)には彼の創案にもとづき両税法を発布させ,租庸調法を廃止させた。しかし,劉晏(りゆうあん)を憎んで死に至らしめたり,彼の中央集権回復政策が諸藩鎮に不穏な情勢を起こさせたことにより,翌年左遷され,ついで殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊炎」の意味・わかりやすい解説

楊炎
ようえん
(727―781)

中国、唐中期の政治家。字(あざな)は公南。鳳翔(ほうしょう)(陝西(せんせい)省)の人。祖父、父、本人と三代にわたり孝をもって表彰された。地方藩鎮の掌書記を振り出しに、中央に入り中書舎人となり、常袞(じょうこん)と制誥(せいこう)(詔勅の文)を起草し、「常楊」と並称された。同郷の宰相元載(げんさい)に認められて吏部侍郎となる。元載の失脚から地方にうつされたが、徳宗が即位すると、宰相崔祐甫(さいゆうほ)の推挙を受けて宰相となった。780年、彼の建議により、安史の乱後の紊乱(びんらん)した国家財政の安定を図って、租庸調制を廃し両税法が断行された。両税法は以後明(みん)代に一条鞭法(いちじょうべんぽう)が施行されるまで中国税制の基本となった。

 権勢を握った楊炎は、推挙を受けた崔祐甫を排し、元載を徳とし、元載の失脚に対する復讐(ふくしゅう)に執心し、これに関係ありとして政敵劉晏(りゅうあん)を讒(ざん)して死に至らしめた。しかし彼の中央集権策は諸藩鎮の反発を買い、徳宗の信頼を失い、最後は彼自身も宰相盧杞(ろき)の讒にあって崖州(がいしゅう)(海南島)司馬に左遷され、その途中で死を賜った。

[松井秀一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楊炎」の意味・わかりやすい解説

楊炎
ようえん
Yang Yan; Yang Yen

[生]開元15(727)
[没]建中2(781)
中国,唐中期の宰相。字は公南。鳳翔 (陝西省) の人。宰相元載の推挙で吏部侍郎となったが,元載の失脚で地方官に左遷。やがて宰相崔祐甫の推挙で再び中央に帰り,門下侍郎,同中書門下平章事に任命された。この頃崩壊していた租・庸・調の代りに両税法を建議して,実施した。この税法は以後明代に一条鞭法 (いちじょうべんぽう) が採用されるまで,長く租税制度の根幹となった。後年,同じ宰相の崔祐甫をないがしろにして権勢をふるい,また恩義に報いるとして元載失脚の復仇に努めたことから,地方下級官に左遷され,赴任の途中,死を賜わった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「楊炎」の解説

楊炎(ようえん)
Yang Yan

727~781

唐の政治家。鳳翔(ほうしょう)天興(陝西(せんせい)省鳳翔県)の人。徳宗の初め宰相となり,財政を宦官(かんがん)より取り戻し,780年両税法を施行した。前代の宰相元載(げんさい)の仲間で,その処罰を行った劉晏(りゅうあん)を恨み,これを殺したが,やがて自分も失脚し殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「楊炎」の解説

楊 炎
ようえん

727〜781
唐の政治家
河西節度使の部下から中央に進出。徳宗のとき宰相になり,780年両税法を施行し,安史の乱で破綻をきたした財政の回復をはかった。しかし,他の宰相を無視したやり方は徳宗の信用を失わせ,翌年に失脚。崖州(海南島)に左遷され,赴任の途中殺された。

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