横谷村(読み)よこやむら

日本歴史地名大系 「横谷村」の解説

横谷村
よこやむら

[現在地名]吾妻町松谷まつや

松尾まつお村の西にあり、東南を流れる吾妻川左岸の横谷(現松上まつかみ)と、がんさわ川右岸の檗窪きわだくぼぶすくぼの小字がある。吾妻川の河谷は村の東端雁ヶ沢辺りから深く険しくなっており、吾妻峡(国指定名勝)を形成する。信州道は河谷に沿って岩山の間を通り道陸神どうろくじん峠を越えて川原畑かわらはた(現長野原町)に至る。戦国時代横谷左近がこの地を領し、岩櫃いわびつ城斎藤氏の岩下衆に属していたが、永禄六年(一五六三)の岩櫃落城により真田氏に属し、天正八年(一五八〇)真田昌幸の馬廻役として活躍している(加沢記)


横谷村
よこだにむら

[現在地名]香北町横谷

日御子ひのみこ村・朴木ほおのき村の北方には山一つ隔てて、古来三谷さんたにとよばれた横谷・中谷なかだに谷相たにあいの三村がある。これらは物部ものべ川に並行して西流し、日御子村柳川やないごう河内かわのうち川へ注ぐ横谷川の谷間から、北の高場たかば(九七四・五メートル)山腹に向かう緩やかな斜面に広がっている。三谷のうち最も低い標高二〇〇―三〇〇メートルにあるのが横谷村で、西に日御子村柳川、北東に中谷村がある。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是横谷名先高五百ト有」とし、一四筆一町五反二〇代(田分七反・畠屋敷八反余)とあるが、そのすべてが「横谷名分 今禰須左兵衛扣」とある。


横谷村
よこだにむら

[現在地名]矢掛町横谷

なか村の東にあり、北辺を東流する小田川を挟み北は東三成ひがしみなり村。永禄(一五五八―七〇)頃と推定される洞松とうしよう寺の寺領帳に横谷とみえ、一〇代余・定納一斗余とある。寛永備中国絵図に村名がみえ、旗本花房領(高一千二五七石余)洞松寺(高三〇石)の相給。正保郷帳でも花房領・洞松寺領の相給で、枝村に高田こうだ村・かしわけ村・井谷いだに村が載る。洞松寺は幕末まで当村内に寺領(旧高旧領取調帳では三五石余)を有したが、同寺領を除いては、元禄一二年(一六九九)庭瀬藩領となって以降、同藩領で幕末に至った。延宝五年(一六七七)の検地帳(矢掛町教育委員会蔵)では古検反別一〇三町八反余とあり、田方五二九石余・四六町五反余、畠方二一一石余・三六町六反余で、屋敷数一八六筆(高六八石余)


横谷村
よこだにむら

[現在地名]金井町大和やまと 横谷

吉井よしい川と新保しんぼ川に挟まれた洪積台地上にあり、国仲くになか丘陵の低位段丘にあたる。北は金北きんぽく山麓に続き、東は地持院じじいん川を挟んで吉井本郷よしいほんごう村、西は西方にしがた村・新保村、南は馬場ばんば村・中島なかじま村・船津ふなつ村。深い谷を流れる沢が二本あり、北側をいやんが沢、南側をくり沢とよび各々東流して地持院川に注ぐ。この谷は古くから開かれている。栗ノ木沢の耕地は現在では新保川の四ッ江よつえから水を引くが、かつては栗ノ木沢・上が沢とも新保川用水ではなかった。上が沢は現在でも新保川の水を引かず周囲の山から集まる地水によって灌漑する。そのため沢の頭には夏の渇水期に備えて溜池がつくられている。栗ノ木沢の溜池は唐津からつ堤とよぶ。


横谷村
よこたにむら

[現在地名]布野村横谷

雲石路の赤名あかな峠を挟んで北は出雲国飯石いいし郡赤名村(現島根県飯石郡赤来町)と境を接する。村域のほとんどは山で、わずかに布野川の刻んだ谷々に農家が点在する。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村名がみえ、村高三四一・二八六石とある。三次みよし郡内でも雪の多い地帯で「国郡志下調書出帳」によれば「毎歳弐尺四五寸より三尺位積」り、農業の他「スミ(炭)抔少シつゝ焼出并駄賃仕候」という村で、寛政五年(一七九三)には三次郡役所へ熊胆を売った史料(三上家文書)もあり、熊が生息していた。

宝暦三年(一七五三)の横谷村万書出帳(長岡家文書)によると、村内に藩営の大暮山おおくれやま鑪所と灰谷山はいたにやま鍛冶屋があり、前者には一三〇人(男八七・女四三)、後者には七〇人(男三九・女三一)のいわゆる山内さんない者が働いていた。


横谷村
よこだにむら

[現在地名]東条町横谷

もり村の南東、東条川上流域南東部に位置する。中央を東条川支流森谷もりたに川が北流し、細長い谷間となっている。中世は吉川谷よかわだにとよばれていた。天文九年(一五四〇)五月二六日の正雲庵曹慶下地寄進状(清水寺文書)によれば、東条吉川谷の正雲庵曹慶が後世のために下地一反を清水きよみず(現社町)に寄進している。天文一三年一〇月日の田尻忠行等連署書状(同文書)には吉河谷新兵衛尉教忠が署名している。教忠は天文二二年と思われる二月二三日の長若教盛等連署書状(同文書)に吉賀教忠と署名し当地の土豪であった。永禄七年(一五六四)四月に再建された黒谷くろだにの若宮八幡神社本殿木部銘には建立の奉行衆として吉田よしだ本庄の氏子七人のうちに吉河谷加賀守がみえ、吉田本庄の中心的な領主であったと考えられる。


横谷村
よこだにむら

[現在地名]北条市横谷

高縄たかなわ山西斜面の山村。東は米之野こめのの九川くがわ閏谷うるうだに、南は大河内おおこうち高山こうやま、西は善応寺ぜんおうじ、北は院内いんない猪木いのきの各村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「横谷村 芝山有」とみえ、村高は八〇石五斗六合、うち田方四二石六斗八升八合、畑方三七石八斗一升八合とある。「伊予温故録」に高縄寺由緒として「天智天皇御宇小千守興横谷村に創営す」とある伝説に初めてこの地域が登場する。


横谷村
よこだにむら

[現在地名]木沢村横谷

懸盤かけばん村の西、坂州木頭さかしゆうきとう川上流山間に位置する。南は白石しらいし(現上那賀町)。文明八年(一四七六)六月一五日の仁宇郷公事銭注文(徴古雑抄)には奥分のうちに横谷六〇〇文とみえる。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「よこ谷村」とある。享保七年(一七二二)の仁宇谷村々棟付帳(湯浅家文書)によると高一石余。宝暦一四年(一七六四)沢谷村検地帳(斎城家文書)には横谷村分が書上げられており畑一町三反余・高一石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳、旧高旧領取調帳などには村名がみえず、沢谷村の高に含まれると考えられる。「阿波志」によれば水陸田一町三反余、高一石。前掲享保七年の棟付帳では家数六、うち堂一・氏宮一、人数男六。


横谷村
よこたにむら

[現在地名]那賀町横谷

麻生津おうづ川東側の丘陵一帯に位置し、村内を高野街道が通る。北は北脇きたわき村、西はなか村、南は赤沼田あかんた村に接し、東は伊都いと御所ごせ(現かつらぎ町)

高野山領麻生津庄に含まれた地で、近世も高野山領とされた。正保二年(一六四五)七月一〇日付の麻生津五か村指出帳(旧麻生津村役場文書)によれば村高は総高一〇六石五斗三升三合で、うち米高六四石余・大豆高四一石余。なお麻生津庄では天正一九年(一五九一)と、元和一〇年(一六二四)に検地が行われたが、当村のみの村高は不明である。


横谷村
よこたにむら

[現在地名]弥栄村三里みさと

小角こずみ村の南に位置し、横谷川が北西流する。東は笹目原ささめばら村。郷帳類では長安ながやす村に含まれた。古高八一石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二〇八石余(明治四年万手鑑)。鑪製鉄が行われ、岩倉いわくら鑪などがあった。明治四年(一八七一)の総高二一八石余・反別三二町二反余。


横谷村
よこだにむら

[現在地名]小矢部市横谷

桜町さくらまち村の北西、子撫こなで川右岸の河岸段丘上に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一、峠組に属する。正保郷帳では高七三石余、田方一町九反・畑方三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九五石・免六ツ二歩、小物成は山役二七匁(三箇国高物成帳)。所属組は坂又さかまた村に同じ。


横谷村
よこたにむら

[現在地名]金沢市横谷町

いた村の南東、板ヶ谷川の奥谷に位置。正保郷帳によれば高一七石余、田方五反余・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四二石、免一ツ六歩、小物成は山役四八匁・炭役一一匁(三箇国高物成帳)


横谷村
よこたにむら

[現在地名]朽木村麻生あそ

麻生川上流の山中に位置し、東は麻生村、西は轆轤ろくろ村。寛永石高帳では高五二石余、ほかに二貫一九文。慶安高辻帳では田方二九石余・畑方二三石余、ほかに小物成銭一貫六八二文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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