麻生村(読み)あそうむら

日本歴史地名大系 「麻生村」の解説

麻生村
あそうむら

[現在地名]砥部町麻生

現砥部町の北端、砥部川が重信しげのぶ川に流入する地点に位置し、平野が開けている。

寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地おかえち」に属し、浮穴うけな郡麻生郷とよばれ、大洲藩と新谷藩との相給の村であった。そのため支配の便宜から宝永四年(一七〇七)に分郷して、重信川沿いの上流部を大洲藩領上麻生かみあそう村、下流部を新谷藩領下麻生村とした。「大洲旧記」下麻生村の条に、「上下一村なりしが宝永四年分郷して、庄屋は灘町より清右衛門と云者来」とある。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「麻生村 松林山有、茅山有、川有」、高九九八石八斗九升五合、うち田七四七石三斗五合、畠二五一石五斗九升、このうち四六六石二斗二升八合五勺が加藤出羽守分、五三二石六斗六升六合五勺が加藤織部分と記す。出羽守が大洲藩、織部が新谷藩である。公簿では江戸時代を通じ一村として扱われている。


麻生村
あそうむら

[現在地名]国府町麻生

ふくろ川中流右岸に位置する。南は同川を挟んで広西ひろせ村・玉鉾たまぼこ村。法美ほうみ往来が通る。年未詳二月七日の山名祐豊感状(因幡民談記)によれば麻生四郎次郎が長井の合戦での戦功を賞されているが、同人は当地出身の山名氏被官と考えられる。慶長九年(一六〇四)六月一四日の池田長政領知目録写(岡山大学付属図書館蔵)に村名がみえ、七六八石余が池田長吉から三男長政に与えられている。村は上麻生・下麻生に分れ、下麻生の一部は高岡たかおか村の森原もりはらとともに当地の前田氏と高岡の前田氏が開墾したもので、両家は谷村たにむら堰の用水を麻生台地に引き富農になったと伝える。この用水の水掛面積は六〇町という(国府町誌)。囲籾倉(郷倉)が上麻生にあった(同書)。藩政期の拝領高は六〇一石余、本免は五ツ六分。香河氏・依藤氏の給地があった(給人所付帳)


麻生村
あそうむら

[現在地名]額田町桜形さくらがた

村域を東から西に流れるおと川の河岸段丘右岸に集落が立地し、作手中つくでなか道が通る。集落中央部の北山斜面に浄土宗西山深草派本宿もとじゆく(現岡崎市)法蔵ほうぞう寺末の応声山阿弥陀寺がある。東は小楠おぐす村・下毛呂しもけろ村、西は鍛冶屋かじや村、南は名之内なのうち村・大林おおばやし村、北は富尾とんびゆう村・保久ほつきゆう村と各々山で接する。中世、中山なかやま庄に属したという。松平氏伝承には松平親氏が中山郷征服として麻生内蔵之助を攻滅ぼしたことがある。正保二年(一六四五)成立の「阿弥陀寺由緒記」に、

<資料は省略されています>

とあり、親氏の麻生攻め伝承は、松平親忠の麻生攻めとされる。


麻生村
あそうむら

[現在地名]柳津町飯谷いいたに

曲流しながら北東流する只見ただみ川左岸にあり、北東下流は野老沢ところざわ村、東対岸は持寄もちより村。南西は山越えで大沼郡西方にしかた(現三島町)。本村の北一八町余に端村中山なかやま、本村の北西二二町余の山中に端村柴倉しばくら(芝倉)、本村の西一里二九町に端村樫尾かしおがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に安左右とあり、高八五石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では高一四五石余、免五ツ四分二厘余、本村の家数一九、竈二四、男七五・女五九、馬二、中山は家数二、竈四、男八・女六、柴倉は家数四、竈八、男一五・女一四、馬一、樫尾は家数二、竈六、男一七・女一〇、馬三。


麻生村
あそうむら

[現在地名]二ッ井町麻生

米代川の支流阿仁あに川左岸、七座ななくら山の東麓に位置する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に、麻生村七〇石とある。「秋田風土記」は「此村浅利家子族有と云へとも証とする氏のなし」とし、秋田実季の慶長六年(一六〇一)知行宛行状が肝煎の家に残ることを記す。浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「百刈 浅生左馬之助」がみえるが、当村支配の浅利家臣と思われる。


麻生村
あそむら

[現在地名]朽木村麻生

若狭国境から麻生川が流れ出し、東流してきた川に合流、その流域に集落が点在する。東は荒川あらかわ村・市場いちば村、南は地子原じしはら村など、西は横谷よこたに村。文明一一年(一四七九)一二月、麻生の源四郎大夫などが田畠を朽木氏に流質の形で売却している(朽木文書)。永正一五年(一五一八)九月日の棟別銭加増銭集帳(同文書)では麻生惣は家数二八軒で、三貫三〇〇文を負担。享禄三年(一五三〇)二月二一日の御元服付御懸銭帳(同文書)では「麻生分」として六人の名があげられ、地名に桜本・中村・小坂が記されている。

寛永石高帳では高六二石余、ほかに一貫三二二文。慶安高辻帳では田方三五石余・畑方二七石余、ほかに小物成銭二貫一九文。


麻生村
あそうむら

[現在地名]麻生町麻生

霞ヶ浦の東南岸に位置し、北は島並しまなみ村、南は粗毛ほぼけ村。

地名の起りは、「常陸国風土記」に「麻生の里あり。古昔、麻、潴水さはの涯に生へりき。囲み、大きなる竹の如く、長さ、一丈に余りき」と記され、続いて「里をめぐりて山あり。椎・栗・槻・櫟生ひ、猪・猴栖住めり。其の野、勒馬のりうまを出だす」とある。「和名抄」にいう麻生郷の本郷の地(新編常陸国誌)で、建久二年(一一九一)一一月日の摂政前太政大臣家九条兼実政所下文(鹿島神宮文書)に麻生郷の名がある。


麻生村
あそうむら

[現在地名]万場町麻生

北境を神流かんな川が蛇行しつつ東流し、川沿いを十石じつこく街道の分道が通る。東と北は柏木かしわぎ村、南は武蔵国秩父ちちぶ上吉田かみよしだ村・太田部おおたぶ(現埼玉県秩父郡吉田町)と接する。元亀二年(一五七一)四月七日の北条氏邦朱印状(山口文書)で「山中之内」の「あそふ村」「をより」「なか嶋」の三ヵ所は勲功の賞として山口上総守に与えられ、天正一七年(一五八九)一〇月一五日には新井治部少輔に「阿相之内」「大より西折地」などが宛行われる(「北条家宛行状写」黒沢文書)大寄おおより中島なかじま元禄郷帳では当村の枝村としてみえる。近世はおおむね幕府領。元禄七年(一六九四)に検地が行われ、高七五石余・反別三六町一反九畝余で耕地はすべて畑方、紙舟役・絹売出し・綿売出しなどの役銭を納めた(「山中領村鏡帳」黒沢文書)


麻生村
あそうむら

[現在地名]郡家町麻生

福地ふくち村の南東、私都きさいち川沿いに位置し、枝郷に日和ひよりがある。拝領高は一五八石余。本免三ツ五分。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、日和村は正保(一六四四―四八)以前から内村として成立していたが正保郷帳には掲載せず、元禄国絵図に載せたとある。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一七〇石、竈数五〇余。「因幡志」では家数四九、産土神は大歳おおとし大将軍たいしようぐん。物産は割木・棘。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高二〇八石余、竈数五一。


麻生村
あそうむら

[現在地名]七尾市麻生町

崎山さきやま半島基部中央の山間の村で、清水平しみずだいら村の南に位置する。加賀藩領。元和六年(一六二〇)の検地打渡状(麻生区有文書)に村名がみえ、田畑屋敷高一〇九石余。寛永一二年(一六三五)の鹿島郡喜兵衛組役家書上(藤井文書)によれば役家一六。正保郷帳では高一〇九石余、田方四反余・畑方六町八反余。承応二年(一六五三)の役棟一六(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一一七石、免四ツ九歩、小物成は山役一四三匁、鳥役二匁(出来)があった(三箇国高物成帳)。天明六年(一七八六)の村鑑(加越能文庫)でも高・免・小物成は変わらず、百姓一三(うち本村七・下麻生六)・人数六四、馬九。


麻生村
あそうむら

[現在地名]栄町麻生・竜角寺台りゆうかくじだい五―六丁目

龍角寺りゆうかくじ村の北に位置し、西は酒直さかなお村。「和名抄」に載る埴生はにゆう麻佐あさ郷の遺称地とする説がある。また龍角寺の五斗蒔ごとまき瓦窯跡から「朝布」と記した文字瓦が出土しており、当地をさすものと推測される。天正七年(一五七九)一〇月の千葉介邦胤証状(龍角寺文書)に「当郷・麻生・酒直之三郷」とみえ、龍角寺伽藍の修理料に充てられている。同一九年の埴生之庄麻生之郷縄打水帳(麻生区有文書)が残る。「寛文朱印留」に村名がみえ、佐倉藩領。


麻生村
あさおむら

[現在地名]矢部町麻山あさやま

西は山出やまいで村、東は仁田尾にたお村・うし(現清和村)に接し、笹原ささわら川とその支流都々良つづら川などが流れる。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「あさを」とあり、貫高は九貫一〇〇文。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に移り、のち旧に復した。


麻生村
あそむら

[現在地名]美浜町麻生

みみ川右岸、御岳おたけ山西側の山裾にある。西は中寺なかでら村。弘安六年(一二八三)一〇月の園林寺文書に「山西郷内麻生村」とある。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百五十文 あさう村」とある。永禄六年(一五六三)朝倉氏若狭攻めの時、国吉くによし城に籠城した地侍のなかに麻生村沼田三郎兵衛の名がある(佐柿国吉城籠城記)


麻生村
あそうむら

[現在地名]大野町麻生

西黒野にしくろの村の南東にあり、村の東を三水みみず川が流れる。南北朝期にみえる麻続おみ牧を当地とする説がある(加茂郡の→麻続牧慶長郷帳に村名がみえ、高三九八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では田三九三石余・畑五石余のうち揖斐藩領二〇〇石・旗本徳永昌成領一九八石余。元禄郷帳では幕府領と徳永領の相給。


麻生村
あそうむら

[現在地名]中村市麻生

秋田あいだ村の北、うしろ川左岸にあり、古くは「浅尾村」と書いた(南路志)。「土佐州郡志」は「在後川、東西半町余南北六町許、戸凡六」と記す。万治年間(一六五八―六一)野中兼山が築いたむら溝の取入口麻生堰がある。

年次不明の麻生村地検帳(元禄写)によると検地面積四町八反余、屋敷数一五うち居屋敷一四。四筆を除いてすべて桑名弥次兵衛の給地で、一反余の「土居ヤシキ」(桑名弥次兵衛給)もみえるが、検地当時弥次兵衛は中村城代として中村城に居城しており、この土居屋敷にはいなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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