檜原村
ひのはらむら
[現在地名]檜原村下元郷・上元郷・本宿・南郷・人里・数馬・三都郷・神戸・小沢・樋里・藤原・倉掛・大嶽
多摩川支流秋川の最上流域に位置する。現行の檜原村域をもって一ヵ村とする。秋川は村の東部の本村上組の付近で北秋川と南秋川に分流して二つの谷を形成しており、村の地勢は北秋川と南秋川に大きく二分される。これにより村東部の平坦な地がみられる本村上組・本村下組・泉沢組の三組、これらの西に南谷十組と北谷十組があり、合せて二三組の村組が檜原村を構成している。村の四方は山々で囲まれ、村の南西端は甲州の、南端は相州との国境となっている。地内に嘉元二年(一三〇四)銘を最古に文明一二年(一四八〇)までにわたる板碑があり、うち下川乗の正和元年(一三一二)、笛吹の同二年、和田の元亨四年(一三二四)、白倉の正中三年(一三二六)など鎌倉期は一三基を数える。南北朝期ではいずれも北朝年号となっている。武蔵七党の西党に日奉平山氏がおり、応永二〇年(一四一三)頃に平山三河入道が檜原城を築いたという所伝がある。その遺跡は大光山吉祥寺の裏山とされ、愛宕社が祀られる一帯が主郭で、曲輪跡なども想定されるという。都指定史跡。「風土記稿」では天正(一五七三―九二)の頃、平山氏重などが在城したとする。天正九年と推定される五月三日の北条氏照感状写(武州文書)に檜原とみえ、甲斐国譲原(現山梨県上野原町)に檜原衆が出陣しており、来住野善二郎・同十郎兵衛の戦功が賞されている。同衆は氏照の指揮下にあって国境を守備していたとされるが、同一六年頃、氏照は、檜原で平山右衛門大夫(氏重か)のもとで普請するように西戸蔵(現あきる野市)から男手を徴発している(正月九日「北条氏照朱印状写」同文書)。この普請は、豊臣氏との交戦に備えて本宿にあった檜原城を修築したものか。
慶長三年(一五九八)の御水帳(武田家文書)では畑・山畠・木原など一千一七六筆、屋敷一八一筆で七七貫六二二文、その内訳は本辻四四貫四八六文・出分二四貫三〇文、屋敷本辻八貫九八三文・同出分一二三文となっており、綿・漆・楮などの記載がある。
檜原村
ひばらむら
[現在地名]北塩原村桧原
大塩村の北東方に位置する。南に磐梯山(一八一八・六メートル)、北東に西吾妻山(二〇三五メートル)、北西に高曾根山(一四四三・二メートル)などの高山がそびえ、これらの山々から延びる支脈が四周を取囲む山間の地である。村域は広大であるが、耕地は狭小であった。東は酸川野村(現猪苗代町)、南東は渋谷村(現同上)などに接し、北は檜原峠を越えて出羽国置賜郡綱木村(現米沢市)に通じた。高曾根山南麓に発する大川は村の北部で長井川・吾妻川などを合せて檜原川となり、ほぼ南流しながら村域を縦断し、渋谷村に入り長瀬川となる。この間、右岸には細野川・雄子沢川、左岸には小野川・中津川などの支流が注ぐ。大川・長井川の出合付近に本村の檜原、吾妻川の支流戸倉沢の流域に戸倉(早稲沢ともいう)、小野川上流域に戸倉山(小野川ともいう)、細野川の流域に細野、雄子沢川流域の山中に雄子沢の各集落があった。檜原峠越の米沢街道は若松城下と米沢とを結ぶ要路で、檜原集落は同街道の宿駅となり、同集落の北方に口留番所・木戸などが置かれていた。明治二一年(一八八八)の磐梯山大噴火により当村は様相を一変させた。幾つかの集落は噴火の泥流に埋没、また檜原川などが堰止められて誕生した湖沼群のため移転した集落もあった。
戦国時代には檜原峠が伊達氏領(出羽置賜郡)と会津蘆名氏領との境目であり、当地も軍事上の要衝となった。「塔寺長帳」長禄二年(一四五八)八月二四日条には「たてくちへ当所御せい七千余きにて御立候」とみえるが、同年蘆名勢七千余騎が向かった伊達口とは檜原峠のことと思われる。こののち蘆名方として村北西部の戸山館に拠り、伊達氏押えの任に当たったのは穴沢氏であった。「新編会津風土記」によると、文明一八年(一四八六)蘆名盛高の命を受けた穴沢越中守俊家は、大塩村境、蘭峠付近の山中に跋扈していた山賊二七〇余人を退治、その功によって貞宗の刀と大沼郡の境野(現新鶴村)、道地窪・寺入(現会津高田町)三ヵ村を賜り、戸山館を築いて檜原口(伊達口)を守ったという。このとき古く檜木谷地と称していた当地を檜原に改めたともいう。
檜原村
ひのはらむら
面積:一〇五・四二平方メートル
東京都の西端に位置し、多摩川最大の支流秋川の最上流域で村の大部分が秩父多摩甲斐国立公園に属する山村。北部は奥多摩町、南西部は山梨県北都留郡上野原町、南部は神奈川県津久井郡藤野町、南東部は八王子市、東部はあきる野市に接する。北部に大岳山(一二六六・五メートル)・御前山(一四〇五メートル)、西部に月夜見山(一一四七メートル)・三頭山(一五二七・五メートル)、南部に丸山(一〇九八・三メートル)などがそびえ、これらの水を集めた北秋川・南秋川は東流して本宿で合流、秋川となってあきる野市方面に流れる。
〔原始・古代〕
村内には縄文時代早期の遺跡をはじめ埋蔵文化財包蔵地が四二ヵ所(うち時代不明の遺跡三ヵ所)確認されている。北秋川の上流、中組から小河内峠に向かう標高九五〇メートルの尾根の中腹にある中之平遺跡は、都内最高地点に位置する縄文早期の遺跡。北秋川の小岩にある王子が城遺跡は山麓に形成された集落遺跡で、縄文時代の敷石住居跡が発見されている。古代の歴史をうかがわせる資料は少ないが、王子が城遺跡からは土師器や須恵器の破片が出土している。檜原村白倉組の大岳山の山上に位置する大嶽金峯山蔵王権現は、天平一九年(七四七)の創祀と伝える。
檜原村
ひばるむら
[現在地名]南区桧原一―七丁目・桧原・大平寺一―二丁目・西長住三丁目・長住四―七丁目・花畑三―四丁目、城南区樋井川五丁目
上長尾村の南、樋井川の流域にある。早良郡に属する。西は東油山村(現城南区)、東は那珂郡屋形原村。中世には比伊郷の内であったらしい。大内政弘は文明一〇年(一四七八)九月の豊前・筑前回復後、同月二五日には安富遠江(尭祐)に早良郡の「比原」六町を(「大内政弘宛行状」正任記)、同年一〇月一三日には吉賀江盛通に「比井郷内檜原村五町地」(杉原次郎左衛門尉跡)を(「大内政弘下文」同書)、同一八日には錦見房宗に比原郷内七町七反地(飯田加賀守跡)を(「大内政弘下文」同書)、同日曾我房資に比原六町の地(飯田加賀守跡)をそれぞれ給与している(「大内政弘下文」同書)。
檜原村
ひのはらむら
[現在地名]三島町桧原
西方村の東、只見川対岸一六町余にあり、河岸段丘上に開かれた村で、小名小疇(小和瀬)は村の北一〇町只見川対岸にあり、ともに船渡しで交通する。「新編会津風土記」西方村の項に「船渡場、村東ニテ只見川ヲ渡シ檜原村ニ通ス」とあり、宝暦一〇年(一七六〇)の西方村明細帳(山内家文書)には公用の渡船で「一駄に付十文、一人前に付八文ヅツ、牛馬一疋十文ヅツ取申候」とある。
檜原村
ひばらむら
[現在地名]朝日村桧原
高根川右岸平地にあり、東は川を隔てて黒田村に対する。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「檜原六郎右衛門 五百地太子堂ノ前木ハ穂保殿之取次也 役百五十文 鮎川殿之分」とあるほか「檜原太子堂之前」とあり、その五〇〇地の役銭一五〇文が耕雲寺(現村上市)へ納められている。天文二二年(一五五三)一一月二七日付の小河長資と推定される某知行宛行状写(秋田藩家蔵文書)によれば、「檜原ニ横井与三右衛門持所中河之原五百地、なわしろなり二百地りう所作二百地、江戸さへ百地」など一貫七〇〇地が替地として益田掃部助に与えられた。
檜原村
ひばらむら
[現在地名]常滑市檜原
南北の丘陵地に挟まれ、村の中央の谷あいを東西に街道が走り、街道の北に集落が発達。街道のやや南を東端の烏帽子池に発する水路が西へ流れて、田畑を潤す。西は古場村・苅屋村に接する。村名は、檜の山林が伐採されて村里になったことに由来。当村を中心とし、近村に広がる檜原山古窯跡群は平安・鎌倉期のもので、「雑志」にも「当村ノ内陶器ヲ焼シ竈跡数ケ所アリ。昔日此辺多ク陶器ヲ製シケルニヤ。今ニ土中ヨリ壺・茶碗ノ類種々堀出ストナン」とある。
「寛文覚書」によれば、概高二四四石余、田一五町六反余・畑一町余、家数二一、人数一二三。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によると、寛永二年(一六二五)に寺尾左馬助の給知であった。
檜原村
ひのきはらむら
[現在地名]下郷町沢田
塩生村の南西、阿賀川右岸の低平地に立地。会津若松から下野宇都宮に行く街道(川路通)が通る。南山御蔵入領松川組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」には檜木原村とみえ、九九布郷に属する。宝暦八年(一七五八)の家数四一・人数一七〇、馬二二(「会津郡大沼郡人別牛馬改帳」阿久津家文書)。「新編会津風土記」によれば、家数は本村二一、小名の上村五・田頭五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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檜原〔村〕
ひのはら
東京都西端にある村。南西は山梨県に接する。 1893年神奈川県から東京府に編入。大部分が山地で,ヒノキ,スギなどの木材を産し,それが地名の由来ともなっている。厚い茅ぶき屋根に3段造りのかぶと棟の民家が残る。村域の南部を除き,秩父多摩甲斐国立公園に属する。面積 105.41km2。人口 2003(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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