中国,甘粛省の中部,河西回廊地帯の都市。人口95万(2000)。蘭新鉄道(蘭州~ウルムチ)に沿う。古く姑臧(こぞう)県といい,前漢時代,前1世紀の中ごろここを中心として武威郡が置かれたのがその名の起りである。五胡十六国時代には前涼,後涼等の都となった。武威郡はその後,涼州,西涼州などといわれたが,清代になって姑臧県は武威県と改名された。灌漑が発達し農業が盛んで,付近の農産物の集散地でもある。
執筆者:日比野 丈夫
漢代武威郡治の所在地であった武威県の城南10~15km,祁連(きれん)山麓台地上に多数の漢墓が群在する。そのうちの一つ磨嘴子(ましし)墓群は数百基からなる。墓の構造は墓道をもった長方形単室土洞墓で,双室はまれである。いずれも木棺に納めた夫婦合葬を行う。墓門と墓頂の形態から3式に編年され,前漢末から後漢末の間に営まれた。乾燥地帯のため遺物の保存が良く,衣服や被葬者名を墨書した銘旌などの織物類,木製明器(めいき)の俑(よう),馬車,牛車などがある。6号墓には《儀礼(ぎらい)》を書写した木簡,18号墓には〈王杖十簡〉があった。旱灘坡にも同様の漢墓群があり,〈医薬簡〉が出土した(漢簡)。これら群集墓は墓の規模,副葬品が一様で,郡県の実権を握る地方豪族層のものと思われる。県城北約1kmの雷台(らいだい)墓は後漢後期の大型墓である。封土はもと一辺約40mの方形で,墓室は墓道,甬(よう)道,耳室をもった前室・中室・後室からなる多室塼(せん)築墓で,天井,壁面の一部に壁画のあとがある。盗掘されているが,なお青銅連枝灯,青銅鍍金鐺,緑釉望楼などの副葬品がある。後室出土の銀印は〈□□将軍〉の印文がある。前室と右耳室出土の青銅車馬行列明器は〈踏燕奔馬〉を含め,みごとな造形を示す。うち3頭の馬の胸前に〈冀張君……〉〈張掖長……〉〈守左騎四人……〉とあり,おそらく,これら官職を歴任し□□将軍に至った墓主の経歴を示すものと思われ,墓の規模,構造,封土など後漢後期の将軍級の墓の様相を知ることができる。
執筆者:秋山 進午
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中国、甘粛(かんしゅく)省中部の地級市。1市轄区、2県、1自治県を管轄する(2016年時点)。常住人口181万5054(2010)。祁連(きれん)山脈の北麓、河西(かせい)回廊にあり、石羊河(せきようが)のつくるオアシスに位置する。黄河(こうが)の流域から西域(せいいき)への門口にあたり、古くは異民族の居住地であったが、漢代に武威郡が置かれ、西域統治の一拠点となった。のち南北朝時代に涼州(りょうしゅう)となり、その後もこの名でよばれた。清(しん)代に武威県と改められ、1985年武威市となった。
しばしば異民族の占拠するところとなったが、河西地域のなかでももっとも豊かなオアシスで、農業や牧馬が盛んなためシルク・ロードの有力な都市として繁栄した。蘭新(らんしん)線、幹武線(幹塘(かんとう)―武威)が通じる。河西地域の文化の中心地で、大雲寺、西夏碑などの旧跡がある。
[秋山元秀・編集部 2017年6月20日]
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