京極為兼(読み)きょうごくためかね

日本大百科全書(ニッポニカ)「京極為兼」の解説

京極為兼
きょうごくためかね
(1254―1332)

鎌倉末期の歌人京極派の創始者。正しくは「ためかぬ」。藤原為教(ためのり)の男。祖父為家に歌学を学び、伝統的歌風を固執する御子左(みこひだり)嫡流(二条為氏・為世)の権威に反発、心の赴くままに自由なことばで詠歌する革新的な作歌法を主張した。伏見(ふしみ)天皇に春宮(とうぐう)時代から親近、歌道師範となる一方、持明院統(じみょういんとう)政権を支持して政治的に活躍し、ために幕府に異図ありと讒言(ざんげん)されて1298年(永仁6)佐渡配流となる。5年後帰京、なお伏見院の信任厚く、花園(はなぞの)朝において正二位権大納言(ごんだいなごん)に至り、為世との激しい勅撰集(ちょくせんしゅう)撰者争い(『延慶両卿訴陳状(えんきょうりょうきょうそちんじょう)』)のすえ、1312年(正和1)『玉葉和歌集』を単独で撰進した。翌年10月出家、法名蓮覚(れんかく)、のち静覚(じょうかく)。15年4月盛大な春日(かすが)社参りを行ったことが西園寺実兼(さねかね)の忌諱(きい)に触れ、ふたたび土佐配流。後年和泉(いずみ)、河内(かわち)(大阪府)に移り、元弘(げんこう)2年3月21日没。

 自然の動きを大胆にとらえた迫真的な叙景歌に優れ、また思想的な観念歌にも特色がある。「閨(ねや)の上は積れる雪に音もせで横ぎるあられ窓たたくなり」「ものとして量(はか)り難しな弱き水に重き舟しも浮ぶと思へば」。

 作品は『玉葉集』『風雅集』、京極派諸歌合(うたあわせ)に入るほか、『歳暮百首』『立春百首』『花三十首』『鹿(しか)百首』などがある。『為兼卿家集』前後2集は彼の作を含む私撰集で家集ではない。歌論書『為兼卿和歌抄』および日記『為兼卿記』(和歌関係記事のみの抄出)がある。変革期の歌人政治家として特色ある人物。

[岩佐美代子]

『石田吉貞著「京極為兼」(『日本歌人講座 中世の歌人Ⅱ』所収・1961・弘文堂)』『土岐善麿著『日本詩人選15 京極為兼』(1971・筑摩書房)』

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朝日日本歴史人物事典「京極為兼」の解説

京極為兼

没年:正慶1/元弘2.3.21(1332.4.16)
生年:建長6(1254)
鎌倉時代の歌人。法名は蓮覚,のち静覚。為教の子で,藤原定家の曾孫。従二位為子は姉。西園寺実兼の家司として,持明院統の伏見天皇に東宮時代から仕える。近臣の政治家として活躍,忠節ぶりが『中務内侍日記』にみえるが,そのため実兼と対立し,永仁6(1298)年佐渡に配流される。召還されてからは権大納言に至ったが正和3(1314)年には土佐配流に遭う。そのとき武士に召し捕らえられ,連行されるのを見た日野資朝は「あな羨まし。世にあらん思ひ出で,かくこそあらまほしけれ」といったという『徒然草』第153段の話は,両統迭立の時代とふたりの人物像をよく伝えている。家芸の方面では幼時,祖父為家に和歌を学び,東宮時代の伏見天皇とその周辺を指導,大覚寺統に仕える二条派の為氏,為世に対抗し,独自な作歌理念を主張する京極派を興した。弘安8(1285)年ごろ成立の歌論書『為兼卿和歌抄』は「心のままにのにほひゆく」和歌を良しとするが,京極派の特色である『万葉集』への関心,微細な自然観察,心の動きへの凝視もこれに由来する。そのため,為兼は詞を粗略にし,制御できもしない心を大事にすると論難する反京極派による『野守鏡』も現れた。また正和1年伏見上皇の命により『玉葉集』を単独で選進。光厳天皇選の『風雅集』とともに,京極派和歌の規模を伝える勅撰集で,和歌史の中では長く異端視されたが,近代になって折口信夫らにより高く評価された。『続拾遺集』以下の勅撰集に132首が入集している。<参考文献>岩佐美代子『京極派歌人の研究』,土岐善麿『新修京極為兼』

(三角洋一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「京極為兼」の解説

京極為兼
きょうごくためかね

[生]建長6(1254)
[没]元弘2=元徳4(1332).3.21. 河内
鎌倉時代後期の歌人。父は藤原為教 (ためのり) ,母は三善雅衡の娘。従二位為子は同母姉。正二位大納言にいたる。早くから持明院統の伏見天皇に廷臣として仕え,和歌を指導。政治にも関与し,永仁6 (1298) 年佐渡へ,正和5 (1316) 年土佐へ配流される。京極派歌壇を主宰,歌合を催し,またその判者となるなど,持明院統の宮廷歌人を指導し,二条家の歌人と争った。伏見天皇の永仁1 (1293) 年,二条為世ら3人と勅撰集を撰進しようとしてならず,佐渡から帰京後の正和2 (1313) 年,『玉葉和歌集』を単独で撰進。それ以前,これをはばもうとする二条為世との間に『延慶両卿訴陳状』 (10) の争いがあった。歌風は客観的,写生的で,斬新な着眼のもの,知的傾向の著しいものもあり,京極歌風の典型。和歌は『続拾遺集』以下にみえるほか,『鹿百首』『佐渡詠三十一首』など。歌論書『為兼卿和歌抄』,日記『為兼卿記』がある。 (→京極家 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus「京極為兼」の解説

京極為兼 きょうごく-ためかね

1254-1332 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
建長6年生まれ。京極為教(ためのり)の子。持明院統の伏見天皇に信任され,京極派をひきいて歌壇で活躍。一時佐渡に流される。のち権(ごんの)大納言。正二位。二条為世(ためよ)との論争にかち,「玉葉和歌集」撰者となる。晩年土佐に流され,元徳4=元弘(げんこう)2年3月21日河内(かわち)で死去した。79歳。「続拾遺和歌集」以下の勅撰集に132首はいっている。
格言など】枝にもる朝日の影の少なきにすずしさふかき竹のおくかな(「玉葉和歌集」)

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旺文社日本史事典 三訂版「京極為兼」の解説

京極為兼
きょうごくためかね

1254〜1332
鎌倉末期の歌人
藤原定家の孫為教 (ためのり) の子。持明院統の伏見天皇に仕え,両統迭立 (てつりつ) に関与し朝幕間に政敵多く,1298年佐渡,1315年土佐に配流された。この間,'11年『玉葉和歌集』の撰進を命じられ翌年完成。その繊細な感覚的表現と率直な描写は沈滞した鎌倉末期の歌壇に清新の気を示した。

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百科事典マイペディア「京極為兼」の解説

京極為兼【きょうごくためかね】

鎌倉後期の歌人。京極家の祖である為教(ためのり)の子。藤原為兼とも。持明院統の伏見院の院宣による勅撰集の撰者の問題で二条為世と論争し,これに勝って《玉葉和歌集》を単独で撰した。のちに失脚。当時の歌壇の革新派を代表する歌人。歌論書に《為兼卿和歌抄》がある。
→関連項目永福門院二条家(歌の家)

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世界大百科事典 第2版「京極為兼」の解説

きょうごくためかね【京極為兼】

1254‐1332(建長6‐元弘2)
鎌倉後期の歌人。藤原為家の三男為教(ためのり)の子。進歩的な革新歌人として京極派の指導者となり,二条家の為世と対立した。京極家独特の万葉尊重・歌病無視・自然観照などの歌論と,〈枝にもる朝日の影の少なきに涼しさ深き竹の奥かな〉など清新な歌風を樹立。持明院統の伏見天皇に親近して信任厚く,政治に深入りしたため,反対勢力により1298年(永仁6)佐渡に配流されたが,1303年許されて帰京後も信念を曲げず,精力的に活動した。

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世界大百科事典内の京極為兼の言及

【玉葉和歌集】より

…20巻。伏見院の院宣により1312年(正和1)に京極為兼が撰進。《玉葉集》と略称。…

※「京極為兼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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