河内郷
こうちごう
寛永二〇年(一六四三)まであった中世の郷名。現岩国市の西部三分の一強の広さを占め、錦川中流域に位置する。近世初頭には七九平方キロほどの郷域をもち、あまり高くはないが山地である。
郷名の初見は、大字寺山の日光寺旧蔵文書の永仁三年(一二九五)の下知状で、「河内郷日光寺免田壱町陸段百歩、(中略)為守護沙汰可
致
造営
之功状如件」とある。また永享二年(一四三〇)の文書に「周防国山代庄河内郷日光寺本免并勘料田等之事」とあるように、中世には山代庄に属していた。
「山代温故録」によると中世の山代には「六郷七畑」(あるいは「五箇八箇村」)と称して一三の村があったとされるが、河内は七畑の一つに入る。
河内郷
こうちごう
現在の笛吹川と鵜飼川に挟まれた平坦地にあった中世の郷。貞治三年(一三六四)二月一五日の一蓮寺寺領目録(一蓮寺文書)には、貞和元年(一三四五)九月一五日河内小太郎入道女子尼如阿が「河内井土」五段を寄進、文和三年(一三五四)九月一一日河内三郎太郎入道成阿が寄進した経田一町のうち五段が河内にあったとある。河内氏は源清光の子で、対馬守護となった甲斐源氏五郎義長(長義)に始まるとされ(尊卑分脈)、名字の地である当郷を南北朝期にも同氏が領していたことが知られる。「一蓮寺過去帳」には永享五年(一四三三)四月一九日の性阿弥陀仏、文明一八年(一四八六)五月二六日の大一房、大永四年(一五二四)五月二一日の理仏房に河内の注記があるが、地名か姓かは判然としない。
河内郷
こうちごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本・名博本ともに訓を欠く。大山庄の立庄に関する承和一二年(八四五)九月一〇日の民部省符案(東寺文書)に、同庄の田地が河内郷に含まれていたことが記されているから、郷域は郡域北西部の現大山地区を含む。
河内郷
こうちごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、コウチであろう。「出雲国風土記」によれば出雲郡八郷の一つで、郡家の南一三里余に郷長の家があり、地名は斐伊川が郷内を流れることに由来し、長さ一七〇丈余の堤が築かれていた。天平六年(七三四)の出雲国計会帳(正倉院文書)に同五年七月二三日のこととして河内郷大麻里とみえる。同一一年の出雲国大税賑給歴名帳(同文書)にも河内郷とあり、伊美里・大麻里があった。二三戸の日置部をはじめ建部臣・日下部首・林臣族などの人物が書上げられ、高年者四人・鰥四人・寡六九人・貧窮者六人などの賑給対象となる総数は一〇一人で、合計穀四九石三斗が支給されている。
河内郷
かむちごう
「和名抄」所載の郷。同書東急本・元和古活字本は「加無知」の訓を付す。平城京二条大路跡出土木簡に隠伎国役道郡「河内郷□□里鴨部調□螺六斤 天平七年」、隠伎国役道郡「川内郷福□」とみえる。
河内郷
こうちごう
「和名抄」諸本に訓はない。同書に載る隠岐国隠地郡河内郷に「加無知」、安芸国安芸郡河内郷に「加布知」の訓があり、河内国の訓「加不知」(東急本国郡部)もある。
河内郷
かつちごう
「和名抄」に「河内」と記され、訓を欠く。「常陸国風土記」那賀郡の項に「河内駅家」があり、「郡より東北のかた、粟河を挟みて駅家を置く。本、粟河を
らして、河内の駅家と謂ひき。今も本の随に名づく」と記される。
河内郷
かうちごう
「和名抄」に「河内」と記され、訓を欠く。高山寺本に久慈郡内に二つ河内郷が載るが、重複と思われる。「常陸国風土記」久慈郡の項に「郡より西北のかた廿里に河内の里あり。本は古々の邑と名づく。
河内郷
かわちごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。「三河国古蹟考」では「河内方廃、幡豆郡有河内村、賀茂郡有下河内村、或是等地也」とする。「日本地理志料」では岡崎市の旧上和田村・下和田村の和田は矢作川の曲流部にあり、河内にあたるとし、さらに「宮地・中ノ郷・赤渋・青野・高橋・合歓木・在家・畑野・井内・土井・法性寺・牧御堂」を含め、岡崎市南西の矢作川左岸と推定している。
河内郷
かつちごう
「和名抄」に「河内」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、牛久城中ノ辺ナリ」とあり、現稲敷郡牛久町城中一帯に比定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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