改訂新版 世界大百科事典 「油問屋」の意味・わかりやすい解説
油問屋 (あぶらどんや)
近世,油を取り扱う問屋の総称。この時代の油市場の中心は大坂であり,政治的には江戸市中での照明用として灯油の需要を満たすことが最重要な課題であった。大坂における油市場成立の背景には,大坂およびその周辺地域での絞油業がいちじるしく展開したことが影響している。大坂の油の流通機構として,絞油原料であるナタネ,綿実を扱う両種物問屋と,油そのものを取り扱う油問屋がある。両種物問屋は享保(1716-36)ごろに設立されたが,菜種問屋と綿実問屋とがある。両種物問屋というのは,諸国からナタネ,綿実を買い集めて絞油屋に売り渡す役割を果たしている。1832年(天保3)には,両種物問屋は大坂55軒,堺3軒,兵庫5軒が存在した。大坂の油問屋には1616年(元和2)にできた京口油問屋,その翌年に始められた江戸口油問屋,延宝年間(1673-81)に始まり,正徳年間(1711-16)に問屋としての体裁の整った出油屋とがある。京口油問屋は京都および伏見への供給地として近世初頭から山崎(大山崎油座)に代わって当たったのはこの問屋であった。時代が下るにつれて,この問屋の業務としては大坂市中の油仲買や西日本各地への売出しが重要性を持ってくるのである。江戸口油問屋は近世国家の成立に伴い,急激に発達してきた江戸での増大した灯油の需要に対応する商業組織として設立された。出油屋は大坂周辺地域の絞油屋からの大坂出店という形式で始まったが,大坂以外の各地の荷受機関としての役割を演じた。最初は大坂周辺の絞油屋製油の流通ルートを確保するために,大坂での利害の代理組織の必要から生まれた。明和期(1764-72)における幕府の〈油方仕法〉の設定にもとづき,江戸口・京口両油問屋といえども,大坂市中の絞油屋からの購入のほかは,出油屋経由でなければ入手できないこととなり,出油屋の大坂油市場での独占支配体制は強固なものとなった。これに対しては大坂周辺農村から反対運動が起こり,有名なものに文政期(1818-30)の〈国訴(こくそ)〉がある。その結果,1832年には油方仕法の改正を行った。この年,営業株のなかで出油屋7軒,京口油問屋2軒,江戸口油問屋4軒の合計13軒をもって油問屋を設立させ,油寄所を別に設けさせている。大坂の油市場にはこのほか油仲買がいる。油仲買は京口油問屋から買い受けたナタネ油(水油)や綿実油(白油)を調合して灯油を作り,加工して製法油として整髪油を作り,江戸,東海道を除き,西日本各地に売り渡すことを主としていた。1770年(明和7)には250株が免株されていた。
江戸では元禄年間(1688-1704)には油問屋の存在が認められ,正徳年間には14軒あったが,しだいに減じて享保期には7軒になった。主として大坂からの下り油を扱っていたが,十組所属の下り油問屋がそれである。1829年(文政12)では公認された21軒のうち,11軒しか営業を行っていない。江戸の油市場は下り油に対する依存度が大きかったことから,江戸の油問屋以外の仲買やしろうとの者が扱う例も多かった。これらの者を油問屋に準じて問屋並仕方として公認することも行った。さらに江戸地回り油の出回りが目だつようになると,油仲買と関東問屋が江戸地回り油問屋を兼ねるようになったのである。
→油
執筆者:津田 秀夫
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