法花寺村(読み)ほつけじむら

日本歴史地名大系 「法花寺村」の解説

法花寺村
ほつけじむら

[現在地名]国府町法花寺

ちよう村の南に位置する。集落の南東今木いまき(今衣山とも記した)がある。法華寺村とも記した(元禄郷帳など)。村名は国分尼寺であった法花寺にちなむという。「因幡志」によると水田の中に礎石が多数残存していたが、多くは常忍じようにん(現鳥取市)が建立された際に寄付されたといい、直径一尺七寸ほどの礎石を一つ残すのみという。拝領高は三五二石余、本免は五ツ六分。奥田氏・三沢氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一三。


法花寺村
ほつけじむら

[現在地名]稲沢市法花寺町

西は馬場ばんば村に接し、三宅みやけ川北岸に位置し、村の東は氾濫原で地が低く、江戸期には稲葉いなば村の方からの悪水が流れ込み「稲梁ヲ敗傷スルコト」(徇行記)があったという。本郷は村の北西の自然堤防上にある(天保村絵図)

応永一六年(一四〇九)服部宗直・藤原氏女が妙興みようこう耕雲こううん庵に田地を売却した売券(妙興寺文書)に「尾張国中嶋郡山口保内田地事、合弐段者在所法花寺前、四至堺本証文有之」とみえ山口やまぐち保に含まれていた。天正三年(一五七五)織田信長道根どうね横野よこの(萩原古川堤)修築を代官祖父江五郎右衛門らに命じた朱印状(氷室家文書)に法花寺とみえ、天正末は織田信雄の家臣河崎与市の知行地であった(織田信雄分限帳)


法花寺村
ほつけいじむら

[現在地名]豊岡市法花寺

祥雲寺しよううんじ村の東に位置し、東は出石いずし奥野おくの村、南は同郡市場いちば村。北東国境に接し、峠を経て丹後国熊野くまの須田すだ(現京都府久美浜町)に連なる。地名の由来となったと伝える寺院法華寺は伝承の寺跡を残すものの詳細は不明。当地に鎮座する酒垂さかたれ神社本殿蟇股に、宝徳元年(一四四九)一一月一五日付で「法華寺住人」の藤原沙弥発教が願文を墨書している。江戸時代の領主変遷駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「法華寺」とみえ、高二九七石余。


法花寺村
ほつけじむら

[現在地名]三和村法花寺

くぼ村の東、水科みずしな村の北にある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には飯田いいだ川右岸水吉みずよし村の下流に描かれる。地字に、どうじやう・ぶたい・たうの前・みろく・ひわたり・さいの神など仏教関係の名があり、かつて越後国分尼寺の所在地に比定されたこともある。頸城郡絵図には「長尾加賀分此外拾三方分法花寺村 上」とみえ、本納一一九石三斗五升九合・縄高三一七石五斗七升二合、家七軒・一五人とある。近世初頭のものと思われる五月一二日付本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば「ホツケシ」をはじめ周辺一六町村の門徒は、専敬せんきよう(現東頸城郡安塚町)取次で京都東本願寺へ志として銀子一〇〇目を納めた。


法花寺村
ほつけじむら

[現在地名]滑川市法花寺

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、西は上小泉かみこいずみ村、南東は稲泉いないずみ村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一六五石、免は四ツ(三箇国高物成帳)。所属組は上島かみじま村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)には、元禄三年(一六九〇)の新開高六石余が記され、村肝煎は庄兵衛、家数四はすべて百姓。


法花寺村
ほつけじむら

[現在地名]橿原市法花寺ほつけいじ

耳成みみなし山の東南方、醍醐だいご村の北東にあり、中世には高殿たかどの庄の内。慶安元年(一六四八)高殿村から分離独立。元禄郷帳には「高殿村之枝郷」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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