法音寺(読み)ほうおんじ

日本歴史地名大系 「法音寺」の解説

法音寺
ほうおんじ

[現在地名]米沢市御廟一丁目

上杉家御廟隣にある。八海山と号し、真言宗。本尊大日如来。寺伝によれば、聖武天皇の勅命により諸国巡回の途上、越後国飯盛いいもり(現新潟県南魚沼郡六日町)の麓で病死した藤原房定弟政照の菩提を弔うため同所に創建された。初め法相宗であったが、のち真言宗に改宗。天文年中(一五三二―五五)六万騎ろくまんき(現同上)城主福島氏が大檀那となり伽藍を再建。天正年中(一五七三―九二)上杉家の帰依寺となり、春日かすが(現新潟県上越市)に移建され、寺領一二〇石を受けたという。


法音寺
ほうおんじ

[現在地名]六日町藤原 境内

藤原ふじわら集落の南西、字境内けいだいにある。真言宗智山派、繁城山と号し、本尊大日如来。寺伝によれば天平年中(七二九―七四九)行基が当地に来て、飯盛山柳平に密厳みつごん庵と称する草庵を建て、同七年藤原麻呂政照が聖武天皇の勅願によって来て、庵を現在地に移して飯盛山密厳院としたという。弘仁元年(八一〇)空海が来て真言密教を授け、その後歴代国主の崇敬厚く、末寺数十ヵ寺をもつ大寺となったという。


法音寺
ほうおんじ

[現在地名]金屋町岩野河

日拝山行基院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。当寺の略縁起によると天平四年(七三二)行基の開基古御堂こみどうにあって七堂伽藍の道場であったという。棟札写に「大檀那沙弥宥盛大法師 源久大法師 大工藤原盛次、康正三丁丑年正月十九日」とあり、現在の堂宇が再建された時期がわかる。天正年中(一五七三―九二)には岩野河いわのがわたに(現金屋町)との境にある北山きたやまの城主板倉信種の孫浄雲がその子助之丞・熊之助とともに堂宇を修復した(金屋町誌)。寺蔵棟札によれば天正一二年には鐘楼を建立している。元禄年間(一六八八―一七〇四)粟生あお(現和歌山県清水町)吉祥きつしよう寺住持快賢も当寺の興隆につとめ、岩野河村の檀那寺とした。


法音寺
ほうおんじ

[現在地名]臼杵市二王座 二王座

臼杵市街地の南西端付近、舌状台地の北東端にある。竹林山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来、宗祖奠定の大曼荼羅。慶長七年(一六〇二)日行の開山。藩主稲葉氏妻室の香華院であることから裏菩提所ともいう。「臼杵小鑑」には「仁王座西の岡にあり。始は井樋の口に有て、今の浄元寺の地は其跡なり。(中略)花山院前内府定誠公の御華なり」と記される。


法音寺
ほうおんじ

[現在地名]丸亀市南条町

江戸時代の城下下南条しもなんじよう町の西側にある寺町一角を構成した。浄土宗西山禅林寺派、海徳山摂取院と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によればもと播磨国龍野たつの(現兵庫県龍野市)にあったが、京極氏入封時に伴ったとされ、創建は延宝二年(一六七四)と伝える。当初北のよこ町の構いであったが、元禄三年(一六九〇)下南条町へ門口を開いたため同町の構いとされた(古法便覧)。「西讃府志」によれば境内は東西三〇間・南北一九間。


法音寺
ほうおんじ

泉涌寺総門内右側に位置する塔頭。本尊不空羂索観音像。嘉暦元年(一三二六)の創建、無人如導の開基と伝える。文明二年(一四七〇)六月兵火にかかり、寛文五年(一六六五)豊前守本多正貫夫人が再建。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「法音寺」の解説

法音寺

和歌山県有田郡有田川町にある浄土宗鎮西派の寺院。732年創建と伝わる。室町時代中期に建てられた本堂は国の重要文化財に指定されている。

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