伝説上の山岳修行者。越(こし)の大徳,神融禅師,泰澄和尚とも号する。飛鉢の術を使う能登島出身の臥(ふせり)行者と出羽の船頭であった浄定(きよさだ)行者を弟子とし,霊夢の導きで717年(養老1)に白山に登拝して初めて白山三峰の神を明らかにしたとされる,越前の越知山(おちさん)(現,福井県越前町)の修行者である。伝説上の人物であるが,本地垂迹説にもとづく事績を詳記する《泰澄和尚伝記》がすでに10世紀に成立しているので,かつては奈良時代に実在していた人物で伝記どおりの経歴を事実とする考えが強かった。だがこの伝記で信用できることは,中央の官大寺とは無縁の地方の民間仏教のなかでのみ育った呪験力にすぐれた修行者が越前にいたこと,その行者が越前の人に大いに白山の霊験を語っていたらしいことの2点ぐらいである。しかし,平安中期以後になると,この伝記によって修飾された泰澄像が人々の心を占めるようになり,泰澄あっての白山,泰澄という人物を通さなければ白山信仰そのものを考えることができない,ということになっていった。
→白山
執筆者:下出 積與
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(川村邦光)
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生没年不詳。奈良時代初期の、加賀(石川県)白山(はくさん)の開創者として知られる山伏(修験(しゅげん)者)。白山修験道では尊称して泰澄大師(だいし)ともいう。682年(天武天皇11)に越前(えちぜん)(福井県)麻生津(あそうづ)に生まれたといわれ、初め越知山(おちさん)(福井市)で修行し、717年(養老1)に白山に登り白山修験道を開いた。その従者に臥(ふし)行者と浄定(じょうじょう)行者があって、彼らに奇跡を行ったことは有名である。開山後も諸国で修行した話はかなり信憑(しんぴょう)性があり、京都では稲荷(いなり)山で修行し、愛宕(あたご)山を開き、大和(やまと)(奈良県)吉野山でも奇跡を現し、九州の阿蘇(あそ)山にも登った。そして400年後にも泰澄は白山に生きているという信仰があった。
[五来 重 2018年6月19日]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…越前馬場は白山中宮で平泉寺が中心であり,美濃馬場は白山本地中宮といい,中心は長滝(ちようりゆう)寺である。718年(養老2)泰澄(たいちよう)がはじめて登拝して,御前峰の神は白山妙理大菩薩と号し,本地が十一面観音,大汝峰の神は大己貴(おおなむち)で本地は阿弥陀如来,別山は小白山別山大行事で聖観音が本地ということを明らかにしたとする伝承がある。この本地垂迹説による伝承が白山信仰の核心にすえられた平安中期以後,三馬場はすべて泰澄によって開かれたという開基縁起に一元化された。…
…役人が僧に帰依すると米は再び船に還ったという。同様の話は,白山の泰澄(《泰澄和尚伝記》),播州一乗寺の法道仙人(《峯相記》),彦山蔵持山空鉢窟の静暹(じようせん)(《彦山流記》)など諸国にみられる。いずれも古代から中世への過渡期に山岳寺院の縁起として形成された話だが,そこには長者や海上交通(米)と霊山(聖)の交渉を通して,王権と山岳寺院(修験道)との関係が物語られており,飛鉢(空鉢(くばつ))とは両者の媒介を象徴するものであった。…
…白山の越前馬場の,白山三所権現をまつる別当寺であった。白山開山の泰澄が創始したと伝える。加賀馬場の白山寺,美濃馬場の長滝(ちようりゆう)寺とともに白山三馬場を形成し,正別当を争ったが,泰澄が越前の人であり,越前から白山を開いたので正面を主張して勢力をほこった。…
※「泰澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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