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生没年不詳。中国、南宋(なんそう)の画家。東平(山東省)の人。嘉泰年間(1201~04)に画院の待詔(たいしょう)となった。酒好きで、自ら梁風子(風子は狂人の意)と号し、天子から金帯を賜っても院内に放っておくなど奇行も多かった。わが国には今日、東京国立博物館に『雪景山水図』(国宝)、『出山釈迦図(しゅっさんしゃかず)』『六祖截竹(ろくそさいちく)図』『李白吟行(りはくぎんこう)図』(以上、重文)の4点が伝わっているが、彼の絵は、人物、山水、道釈、鬼神を巧みにし、精妙な画風のものと、草々とした減筆体(げんぴつたい)のものの二つの画風があるとされる。もちろんこの両者が相まって独自な境地を示すのであるが、試みに精妙体の作品を『雪景山水図』や『出山釈迦図』とするならば、減筆体の作品は『六祖截竹図』や『李白吟行図』となる。いずれにせよ梁楷は空気の把握が的確で、『雪景山水図』などは、画面の素地の白さで寒気あふれる湿潤な雪の重みを表現し、同時に風景の深さ遠さを表す。『李白吟行図』は、極度に少ない筆致の水墨による緊張感のみなぎる作品である。この図の特徴は李白の首の線が描かれていないことで、これも空気の存在に対する梁楷の理解を示すものである。室町時代の『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』に「上々々、東平相義之後、善画人物山水釈道鬼神」とあり、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)とともに日本の水墨画に多大な影響を与えた。
[近藤秀実]
中国,南宋時代の画院画家。生没年は不詳。東平相,梁義の後裔。寧宗の嘉泰年間(1201-04)に画院の最高位である待詔となり,金帯を賜ったが,無関心でこれを画院内にかけ放しにしたという。酒を好み,禅僧と交友するなど,画院画家として常軌を逸する行動があり,人は彼を梁風子(風子は狂人の意)と呼んだ。道釈,人物,山水等幅広い題材をこなし,院体風の細密な画風と粗放な水墨画風を併せ行ったが,梁楷の芸術としての積極面は後者の粗放な水墨画で,李公麟を学んだ賈師左の白描系の画風と唐末以来董源,巨然などの逸品画風を融合させた草々たる人物画は,〈減筆体〉と称された。これは潑墨的な画風から白描的なものまで,かなり変化に富む技法である。梁楷は牧谿とならび,日本でもてはやされた画家で,その減筆体も日本の水墨画壇に大きな影響を及ぼし,ことに海北友松の〈袋人物〉や宮本武蔵の水墨画風の成立には不可欠の存在であった。
執筆者:戸田 禎佑
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…おもに禅宗的主題の人物画に用いられる。南宋後半の画院画家,梁楷が〈減筆体〉をはじめたとされ,草々たる略筆による水墨道釈画を残しているが,その起源は唐末・五代にさかのぼる。いわゆる逸格の画家たちの人物画は衣紋を粗筆,面貌を細筆でえがかれているが,この画風が,梁楷まで伝えられ,洗練度を加えたと考えられる。…
※「梁楷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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