深山村(読み)みやまむら

日本歴史地名大系 「深山村」の解説

深山村
みやまむら

[現在地名]白鷹町深山

高岡たかおか村の北西南東流する実淵さねぶち川の流域に位置し、左岸に深山・大門だいもん橋本はしもと右岸西向にしむかいなどの集落点在、三山とも記した。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高三一一石余、免三ツ一分、家数三四(うち役家七、肝煎・小走二)・人数一八二、役木として漆・紅花青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中。上杉領村目録によると高七六八石余、本免二ツ二分。反別は田三三町二反余・畑三四町五反余(安永八年改)、家数六九・人数三八四、馬三〇。漆木は一万四千五七一本、うち役木三千四〇九・百万本口四千二四一、紅花は御買紅花七〇八匁のほか一五一匁余、真綿は御買綿三〇〇匁のほか七〇匁、畝苧二〇六貫八二〇匁・相場苧三九四貫七六〇匁、蚕利三八二両三分二朱。用水は実淵川より取水した。

当地で生産する和紙は深山紙の名で知られ、寛永―明暦期(一六二四―五八)には浮役として上り紙役銀一匁九分(一戸分か)が課せられていた(白鷹町史)


深山村
みやまむら

[現在地名]和歌山市深山

海部あま郡に属し、加太かだ村の北に位置する。西は海に面し、加太ノ瀬戸を挟んでノ島が浮ぶ。村中をくろ谷を源とする阿振あぶり川が流れ、海に注ぐ。「続風土記」に「村二処に分る、加太の北十二町にあるを口深山といふ、海浜なれとも漁を事とせす、口深山の(東カ)十二町谷の奥にあるを奥深山といふ、奥深山を元村とす、(中略)加太へ越る坂を阿振坂とも阿振峠ともいふ」とある。中世は賀太かだ(本庄)に含まれ、享徳四年(一四五五)二月吉日付賀太本庄年貢等注進状(向井家文書)の「引物之色々日記」中に「一斗 収納深山之分」とみえる。


深山村
みやまむら

[現在地名]赤城村深山

沼尾ぬまお川が赤城山麓の原野を深く削って西流し、よしさわ川と合流する地点が村の中心。山村で沼尾川の下流は長井小川田ながいおがわだ村、南は津久田つくだ村に接し、東・北は赤城山麓原野に連なる。集落は沼尾川・芳ヶ沢川の合流点、字五郎入ごろういりの崖端にある金山きんざん八幡宮の山下に密集。元禄二年(一六八九)長井小川田村の五一石九斗余の地を分け、独立村となった(敷島村誌)


深山村
みやまむら

[現在地名]上県町佐護東里さごひがしさと 深山

佐護七ヵ村のうち最も南に位置する。「津島紀略」では美耶麻と訓じる。藤仲郷の説くところとして御山が村名の由来かとしているが(津島紀事)、村の東西に神山が相対し、照葉樹林の神籬を見るとき、御山の観がある。寛文元年(一六六一)検地帳に佐護郡上佐護村のうち深山とみえ、貞享三年(一六八六)の神社誌には深山村とある。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では佐護郷深山村として田畠木庭物成一五五石余、家数四五・寺二、人数一六八・給人七・公役人一八・肝入一・猟師一六、牛四〇・馬三〇、船一で、寺は禅宗瑞雲ずいうん(現曹洞宗)と天台宗永福えいふく(現臨済宗南禅寺派)


深山村
しんざんむら

[現在地名]岩木町一町田いつちようだ 村元むらもと

東は熊島くましま村、北は百沢ひやくざわ道を挟んで高屋たかや村、西は一町田村、南は真土まつち村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に鼻和はなわ庄の新田として村名がみえ、村高は五五九・八石である。同四年の検地帳によれば村高一九〇・八一九石、うち田方一七八・六四二石、畑方一二・一七七石で、上田中田が田方の六八・五パーセントを占め、水田生産力中程度の村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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