清水城跡(読み)しみずじようあと

日本歴史地名大系 「清水城跡」の解説

清水城跡
しみずじようあと

[現在地名]鹿児島市稲荷町・坂元町・東坂元三丁目

稲荷いなり川下流右岸、標高一三五メートルを最高地点とし、北から南に延びるシラス台地の先端とその南側麓の低平地を主とする。鹿児島城・鹿児島本城とも称され、守護島津氏の本城であった。「雲遊雑記伝」は至徳年中(一三八四―八七)の築城とする。「山田聖栄自記」は大隅守護奥州家島津元久が東福寺とうふくじ城が狭いので稲荷川中流右岸一四八メートルを最高地点とする丘を主とした橋之口はしのくち城を利用して当城を築いたとする。まず麓に施設を造り親類と直臣を移し、次に清水屋形とよぶ施設建設を目指し、一族や国衆が集まることもできるように正面一二間の大規模な主殿を築き、厩(馬屋)・雑掌所(作業場)もそろえた。さらに御前様屋敷も立派に造り、志布志しぶしにいた夫人を迎えるため関係者すべてが奔走したという(同書)。応永九年(一四〇二)と推定される九月一一日の島津元久書状(旧記雑録)には鹿児島城とみえ、料足、銀その他唐物、武具などを入れる蔵も設けられ、その後も拡充され続けた。

応永二〇年一二月七日、伊集院頼久勢が当主島津久豊不在の隙に当城を攻め、その際城の城戸口を預かっていた北原氏の家臣が頼久勢を引入れたという(山田聖栄自記)。久豊は東福寺城に戻り、軍勢の到着を待って原良はらら陣の頼久を打破り、当城を回復した(「島津久豊譜」旧記雑録、「応永記」「島津国史」)。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)には当守護島津武久(忠昌)の譜代の住所と記されており、薩隅日三国守護島津氏の本城であった。

清水城跡
しみずじようあと

[現在地名]大蔵村清水

清水本郷の対岸、通称比良ひらにある中世―近世の平山城跡。文明八年(一四七六)山形城主最上氏二代直家は北進策の一環として六男兼義(成沢城主)の子満久を清水に配した。満久は清水氏を名乗り、はじめ白須賀しらすかに居館を構えたが、のちにその下手の当地に築城、以後清水氏代々の居城となった(「清水家系図」小屋文書)最上川左岸に突き出た段丘と、その周りの深い谷とからなる自然の要害にあたり、地の利を生かした本丸東西三六間・南北四六間、二の丸東西五二間・南北四三間の連郭式であった(新庄古老覚書)

当城は、出羽横手城主小野寺氏の客将鮭延さけのべ(現真室川町)城主佐々木氏(鮭延氏)と庄内の武藤氏に対抗する最上氏の拠点の役割を果していたが、近隣諸雄との対立抗争は激しく、永禄八年(一五六五)の庄内勢侵攻によって清水氏五代義高は本合海もとあいかい(現新庄市)―清水間の鳥打場とりうちばで討死している(清水家系図)

清水城跡
きよみずじようあと

[現在地名]国分市清水

国分平野の東側、手籠てご川に注ぐ郡田こおりだ川下流の左岸に位置する。標高一四八メートルを最高地点とする東から西に延びる溶結凝灰岩シラスののる台地の先端を主とする山城で、清水本きよみずほん城・隈部くまべ城・葦原あしわら城ともいった。「三国名勝図会」は初代の城主として鎌倉初期島津忠久の守護代であった本田貞親をあげ、「薩隅日三州他家古城主来由記」は島津忠国の頃の本田国親とする。しかし当地一帯は鎌倉中期以降、在庁官人の税所氏が曾於郡そのこおり(橘木城)を本拠に勢力を広げていた。建武四年(一三三七)肝付兼重・野辺盛忠らが率いる南朝勢は大隅国に侵入し、郡田・「清水寺」・鼻連はなづら山に向城を取り、同年から翌五年三月にかけて橘木たちばなき城や姫木ひめぎ城に拠る税所氏一族を含む北朝方と戦っているが(建武五年三月二三日「重久篤兼軍忠状」旧記雑録など)、この「清水寺」は当城との関連が考えられる。

清水城跡
しみずじようあと

[現在地名]塩沢町清水

清水の集落南方約五〇〇メートルの地点にある。柄沢からさわ山から西方に延びた尾根の一端、標高八三〇メートルに尾根を利用して築かれた長峰式の山城。直下にはのぼり川に沿って走る清水道があり、北方に登川の扇状地が望まれ、三方は高山が囲む。直路じきろ城ともいう。尾根上に一列に五つの郭が並び、その間を空堀と土塁で固める。山頂部の主郭は長さ三五メートル、幅一一メートルほど。建武年間(一三三四―三八)に新田氏の一族が居城したと伝える。戦国時代には長尾伊賀守がいたという(新編会津風土記)。文禄三年定納員数目録には直路衆として長尾伊賀守の名がみえる。

天正六年(一五七八)の御館の乱に際して、上杉景勝が上杉景虎方に加勢した北条氏の軍の攻撃に備えるため、三国峠口の荒砥あらと(現湯沢町)とともに家臣に厳しく守備させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報