湊町(読み)みなとまち

日本歴史地名大系 「湊町」の解説

湊町
みなとまち

[現在地名]中央区大手門おおてもん三丁目・荒戸あらと一―二丁目・みなと二―三丁目・西公園にしこうえん

博多湾に突き出した荒戸山の南東麓、博多湾に面した町。町の南部の西は荒戸二番町・荒戸三番町・荒戸四番町、南は荒戸通あらととおり町、東は簀子すのこ町、北は博多湾に臨み、荒戸山東麓の博多湾沿岸にも町並が延びている。簀子町円応えんのう寺の北西隣には、福岡藩の米蔵であるなが倉がある(以上、福岡博多近隣古図)。当初、荒戸山にちなんで荒戸新あらとしん町と称されたが、享保一一年(一七二六)火災が続いたため湊町と改称(長野日記・続風土記拾遺)。元禄三年(一六九〇)の荒戸新町は横縦四町で、家数一四〇(続風土記)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数二三三(うち酒家二・麹家一)、馬一六(別本「続風土記附録」)。前掲古図では家数一七二・人数一千一一六、間数六四四間余。「続風土記附録」には船頭せんどう町・ほん町・観音かんのん町・なか町・はま町・西にし町・波奈はな御山下おやまのしたの八字が記される。「続風土記拾遺」は浜町に替えて正覚寺町を記し、新たに新波戸を加えた九つの小名を記している。荒戸山東麓の波奈には湊が築かれており、湊の北端東側には波奈台場が設けられ、前掲古図には「新波戸百廿間」は「寛政年中築」とある。

湊町(荒戸新町)は福岡城築城の拠点、および物流の拠点となる船入りの整備に伴って形成された町と考えられる。

湊町
みなとまち

[現在地名]両津市湊

北は両津湾と加茂かも湖を結ぶ小河川にかかる両津欄干りようつらんかん橋でえびす町と境し、西は加茂湖、東は両津湾、南は原黒はらくろ村。海と湖に挟まれた一本町で、町屋はその両側に軒を連ねる。応永二六年(一四一九)の年紀をもつ久知河内の長安くぢかわちのちようあん寺蔵の大般若波羅蜜多経巻五四三の奥書に「大旦那湊源阿弥陀仏」とみえる源阿弥陀仏は、八幡若宮はちまんわかみや社境内にあった時宗円阿弥えんなみ寺の開基とみられる。天正一七年(一五八九)島内一円が上杉領となると、湊に陣屋が置かれ、慶長九年(一六〇四)には大久保長安により十分一役所が置かれた。正徳三年(一七一三)夷湊問屋往古由緒書(河内屋文書)には、元和年中(一六一五―二四)に夷・湊両町境にあった口屋を浜辺へ移して、御番所(夷湊番所)と改めたとある。

町の成立は江戸初期とみられ、「佐渡年代記」には「当国の町の始まり」と記される。

湊町
みなとまち

[現在地名]伊予市湊町

郡中ぐんちゆう三町の一。もとは吾川あがわ村の一部であったが、江戸時代後半に分離独立し城下町に準ずる取扱を受けた。伊予灘に沿った海岸の町である。

湊町の起りについて寛政一二年(一八〇〇)の「予州大洲領御替地古今集」に

<資料は省略されています>

とある。牛飼原うしこがはらとは、この辺りが草生地で牛を放し飼いにした場所であったからで、初めは小川町おがわまちとよんでいたが、火災が多いため湊町と改名したという。

また正徳四年(一七一四)一一月一七日、小川町の年寄四郎左衛門が代官所に提出した文中に、町の起りを次のように記している。出羽守(泰興)は漁師町取立てのため一〇戸を建てたが、しだいに困窮して三戸になった。上灘かみなだ(現伊予郡双海町)の網元であった四郎左衛門の父が願い出て移住し、網子の者が増えて繁盛し町並もできた。

湊町
みなとちよう

[現在地名]大津市浜大津はまおおつ一丁目・中央ちゆうおう一丁目

御蔵おくら町の東にある浜町通の両側町。北に大津代官所があり、東手の船入堀には扇屋おうぎや(荷揚場)が置かれている(寛保二年町絵図)。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では家数一九。同絵図にみえる一〇間四尺の中堀は大津城の堀の遺構とみられるが、当時は関(荷揚場)として利用され、絵図には扇屋関と記す。同関より北の金蔵かなぐら町に出る辻を要辻かなめづしという(輿地志略)。この扇屋は大津町の有力豪商矢島藤五郎家で、小野氏とともに慶長五年(一六〇〇)より大津町惣年寄を勤め、代々世襲した(大津古事留帳)。絵図にみる屋敷は間口一七間余・奥行一七間余、また三八間余にわたる一画もあり、規模が大きい。

湊町
みなとちよう

[現在地名]港区浜松町はままつちよう二丁目・海岸かいがん一丁目

金杉かなすぎ橋の北東、ふる川の河口北岸に位置する片側町の武家拝領町屋敷芝湊しばみなと町ともいう。北は芝新網しばしんあみ町・同浜松町四丁目、東は陸奥二本松藩丹羽家蔵屋敷、西は東海道を隔てて芝土手跡しばどてあと町、南の古川対岸は芝金杉通しばかなすぎどおり一丁目東側・同金杉裏かなすぎうら一丁目、陸奥会津藩松平家中屋敷。

寛文七年(一六六七)一二月金杉橋際に御多門を建設することとなり、芝新網町の南側古川通りのうち東西一〇〇間・南北幅八間、約八〇〇坪の地所が御用地とされて土手が築かれた。

湊町
みなとまち

[現在地名]島原市湊町・白山町・中組町・下川尻町・南下川尻町・緑町・津町・湊新地町・元船津町・有馬船津町など

いま村の南東部に位置する。近世は島原村今村名のうち。湊町のうち湊部はもと海中であったが、寛政四年(一七九二)の島原大変のまゆ山崩壊で埋立てられ、多数の島々を生じたので港湾として整備してなったという。いわゆる船津ふなつで、島原藩領の北目と南目を結ぶ交通の要衝であった。

湊町
みなとまち

[現在地名]松山市湊町三―四丁目・千舟町ちふねまち一―二丁目

松山城下町の南部の町。北の四番よばん(千船町)に平行して東西に通ずる町筋を含む。東は小唐人ことうじん町、西は末広すえひろ町、南は永木ながき町・河原かわら町・柳井やない町・豊坂とよさか町に接する。初めなが(長)町とよんでいたが、「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の注記によると、正徳三年(一七一三)に湊町と改称している。西北部の小地域に数軒の武家屋敷があるほかは、町人が居住し商業を営んでいた。のちに一―四丁目に分れた。この町の本通に面して丘南山円光えんこう(真宗大谷派)がある。

湊町
みなとちよう

[現在地名]伊丹市伊丹一丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。いずみ町・魚屋うおや町の東側に位置する。有岡ありおか城下時代は侍町の一角。文禄伊丹之図や寛文九年(一六六九)の伊丹郷町絵図には人家は描かれておらず、天和―元禄年間(一六八一―一七〇四)までに成立(文禄伊丹之図・「有岡古続語」)。寛政八年(一七九六)の伊丹細見図(伊丹市立博物館蔵)には保元―平治年間(一一五六―六〇)神崎かんざき(現尼崎市)から舟運があり、湊があったから町名がついたと記される。会所入用割の間数は五一五間(「正心調法記」武田家文書)。元禄期までは多くは竹藪だったという。享保五年(一七二〇)高付された(有岡古続語)。天明四年(一七八四)猪名いな川舟運が始まり、町の南東にある雲正うんじよう坂下には船番所、高瀬舟の荷物揚場、造酒荷蔵などが設けられ、坂を登った町の北西端に郷中囲米蔵および闕所蔵があった(天保一五年「郷町分間絵図」武田家蔵)

湊町
みなとまち

[現在地名]市来町湊町

湊村の中の主として八房やふさ川と重信しげのぶ川に挟まれた沿岸一帯にあたる。近世は商業地域としての野町と漁業・舟運業地域としての浦浜が混在していた。正徳二年(一七一二)春、市来湊・唐仁とうじん町が凶作で米穀がないので向田むこうだ(現川内市)から赤米一〇〇石を代銀引替えで買受けている(列朝制度)。享保一三年(一七二八)の証文留(同書)によると、従来から市来、阿久根坊津ぼうのつの三浜に唐通詞・唐通詞稽古計八人が置かれていたが、この市来は当地のことと推定される。明和四年(一七六七)の伺留(同書)によれば、従来湊町の市は年一回二月二二日であったが、毎月開催したい旨の嘆願が出され藩の許可を得ている。当地では現在でも毎年一二月二二日・二三日に市が開かれている。

湊町
みなとまち

[現在地名]氷見市比美町ひみまち丸の内まるのうち

湊川北側に発達した町で、北六町のうちの本町の一つ。街道を挟んで東側は海岸まで、西は本川ほんがわ町、北はなか町・はま町に接する。中ノ橋を渡るとみなみ町に通じる。元禄一二年(一六九九)の湊川沿岸図(陸田家蔵)では民家が密集しているのがわかる。浦方五町の一つでもあった。漁師たちが多く住み、魚商人や四十物商等が居を占めていた。湊川には漁船が数多く並んだ。北に真っすぐ行けば能登二宮のとにのみや(現石川県鹿島町)に通じ、この道筋は二宮往来と通称された。

湊町
みなとまち

[現在地名]松阪市湊町

伊勢参宮街道は西にし町を経て松坂大橋を渡り、ほん町・なか町・日野ひの町を通過して当町に至る。明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)は、「最モ人家稠密ノ在地ニシテ、北ハ字日野町ニ沿ヒ、西ハ字白粉町ニ接シ、南ハ本郡垣鼻村及字愛宕町ニ隣リ、東ハ本郡矢川村ニ界ス、東西百七十間、南北弐百弐十間、但旧字薬師小路・油屋町・平生町・塩屋町・櫛屋町合シテ本称ニ改ム」と記す。「権輿雑集」には「丁役六歩、天正十六子年渡会郡大湊ヨリ来住、角屋七郎次郎、茶屋市兵衛相続、其余当時不詳、但角屋後白粉町ニ移住」とみえ、天正一六年(一五八八)の松坂建設にあたり、度会わたらい大湊おおみなと(現伊勢市)より商人を誘致して、当町が成立したとしている。

湊町
みなとちよう

[現在地名]兵庫区湊町一丁目・兵庫町一丁目

山陽道の兵庫津への京方面からの入口に位置する岡方の町。地方一八町の一。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、一二筆の屋敷地が記載されている。元禄九年(一六九六)の兵庫津絵図井家蔵)には入口に塀と湊口惣門が描かれ、門内街道東側に高札場と番所、西に八幡宮がみえ、両側に家並が続いている。かつて惣門前にあった迷子のしるべ石が八幡神社境内にあり、迷子を尋ねる人も見つけた人もこの石標に張紙をして連絡しあったという。

湊町
みなとまち

[現在地名]倉吉市湊町

江戸期の武家屋敷地。初め神坂かんざか村の一部で、のち市街化したため町と称された。町名は明治初期の成立とされる。西はひがし町・荒神こうじん町、東は神坂村、北部を津山往来が東西に走る。元禄(一六八八―一七〇四)頃と推定される倉吉古地図(倉吉町誌)によると、津山往来の北側に町家がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報