滝山城跡(読み)たきやまじようあと

日本歴史地名大系 「滝山城跡」の解説

滝山城跡
たきやまじようあと

[現在地名]八王子市高月町・加住町・丹木町

多摩川南岸の加住かすみ丘陵にある。竹山ノ城ともいう。遺構は戦国期の丘陵城郭として大変良好な保存状態で、全国有数の中世城郭として国指定史跡。当城を最初に築いたのは武蔵守護代を歴任した大石氏であるという。大石系図(伊藤家蔵)によれば、大永元年(一五二一)当地の北西約二キロに位置する高月たかつき城主大石定重により築城された。現状の滝山城跡の本郭とその西側の山の神やまのかみ曲輪周辺は小規模な曲輪がまとまっており、大石氏時代の遺構であろうとされている。天文一五年(一五四六)の河越合戦を契機に滝山城主大石道俊(定重の子)は北条氏康に臣従し、のち氏康三男氏照を養子として迎えた。こうして当城は北条氏の持城となり、永禄二年(一五五九)頃には氏照が入城し、大石源三氏照を名乗って北条氏の多摩地域支配の一翼を担った。滝山城主となった氏照は居城の大改修に着手した。今日みる城跡遺構はこの改修によるもの。しかし北条氏照の居城として当城が史料にみえるのは、永禄一〇年と考えられる九月一七日の北条氏照朱印状(北野天神社文書)が最初で、このとき武蔵国宮寺みやでら村分(現埼玉県入間市・所沢市)に検地が実施され、その年貢二三貫八八四文を「滝山御蔵」へ納入するよう命じている。


滝山城跡
たきやまじようあと

[現在地名]中央区神戸港地方 一口里地先

東を生田いくた川の布引ぬのびき谷、西を北野きたの谷の深い谷に挟まれ、急峻な山はだを呈する二つの尾根上、通称しろ山の山頂(三二三メートル)に築かれた中世の山城。多喜山・多芸山とも記される(「赤松記」など)。山頂からは神戸の市街地を一望でき、南西麓には兵庫津があった。築城年代は不明だが南北朝期にはすでに築城されていたという。戦国時代後半には松永久秀が城主で、「細川両家記」には弘治二年(一五五六)七月一〇日、三好長慶を多喜山に招き、千句連歌や観世大夫の能などが催されており、山城での生活がうかがえる早い例として知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「滝山城跡」の解説

たきやまじょうあと【滝山城跡】


東京都八王子市高月町にある城跡。市の北部を流れる多摩川と秋川の合流地点の南、標高約160mの加住(かすみ)丘陵に位置する。北東側は急崖となって多摩川に面し、起伏の激しい広大な丘陵の地形を利用し、本丸・中の丸・二の丸・三の丸・千畳敷・小宮曲輪(くるわ)・空堀・虎口・馬出しなどが巧みに配されている。1521年(永正18)に山内上杉氏の重臣、大石定重が築城したと伝え、後北条氏が勢力を伸ばしてくると、その子定久が北条氏照(うじてる)を養子とし、氏照が1558年(永禄1)ごろ城の大改修を行った。1569年(永禄12)、小田原に向かう武田信玄の大軍に攻められたとき、廿里(とどり)で迎撃したが一蹴され、城は落城寸前にまで追い込まれた。1584年(天正12)ごろ、南からの攻撃に対する防御体制が不十分として、より堅固な八王子城に移ったとされる。1951年(昭和26)に国の史跡に指定され、城跡の大部分は滝山自然公園として整備されている。JR中央本線ほか八王子駅から西東京バス「滝山城址下」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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