滝川一益(読み)タキガワカズマス

デジタル大辞泉 「滝川一益」の意味・読み・例文・類語

たきがわ‐かずます〔たきがは‐〕【滝川一益】

[1525~1586]安土桃山時代武将近江おうみの人。名は彦右衛門織田信長の臣として伊勢の長島城主。次いで関東管領として上野こうずけ厩橋うまやばし城主。小牧・長久手の戦い徳川家康に敗れて出家した。

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精選版 日本国語大辞典 「滝川一益」の意味・読み・例文・類語

たきがわ‐かずます【滝川一益】

安土桃山時代の武将。左近将監(しょうげん)。信長の伊勢平定、武田勝頼攻めに功があった。のち柴田勝家に荷担して秀吉に抗したが敗北。小牧長久手の戦いでは秀吉に従い、家康軍に敗れて蟄居剃髪した。大永五~天正一四年(一五二五‐八六

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改訂新版 世界大百科事典 「滝川一益」の意味・わかりやすい解説

滝川一益 (たきがわかずます)
生没年:1525-86(大永5-天正14)

織豊期の武将。左近将監と称する。河内国出身で幼年から鉄砲を稽古し,織田信秀が斎藤道三を攻めたとき信長に仕えたと伝えるが,1556年(弘治2),57年ごろに信長が尾張津島の堀田道空の庭で踊を張行したときには有力部将とともに名を連ねている。67年(永禄10)春には北伊勢攻略にあたり,69年8月からの大規模な中南勢攻略には中核として働き,安濃津(津)に居城し伊勢湾を管した。73年(天正1)の長島一揆攻撃では伊勢矢田城に入城,翌年7月の一斉攻撃には海上からの攻撃に当たっている。75年の長篠の戦には徳川家康とともに先陣を務め,8月からの越前攻略に参陣。76年の天王寺での一向宗徒攻撃,78年の石山本願寺攻撃に参加,6月に九鬼嘉隆の6艘のほかに一益も1艘の鉄甲船を仕立てて大坂方の小船に大打撃を与えている。80年,81年に後北条氏の使者の信長への取次ぎに当たり,東国筋の担当を始めた。82年織田信忠の甲信攻略に付き添い3月に武田勝頼を討死させ,上野国と信濃2郡を与えられ厩橋(まやばし)城主として関八州の警固と東国の取次ぎを命じられた。同年6月の本能寺の変後,後北条氏と神無川で戦って敗れ,本領の長島に帰った。清須会議の後,織田信孝,柴田勝家と同盟して豊臣秀吉と争ったが,83年7月秀吉に降伏した。翌年,小牧・長久手の戦で膠着状態になったとき,尾張南岸に橋頭堡を確保する作戦から秀吉に用いられた。織田信雄の本拠長島城と清須城の中間にあり,一益旧縁の地である蟹江城を海上からの鉄砲奇襲作戦と内応策で奪い取ったが,《老人雑話》が〈蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり〉と表現するような家康軍の猛攻によって開城した。秀吉は一益の長子は追放したが,先約に従って一益に3000石を,次子に1万2000石を与えた。一益は越前大野に引退し,同地で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「滝川一益」の解説

滝川一益

没年:天正14.9.9(1586.10.21)
生年:大永5(1525)
戦国・安土桃山時代の武将。近江の滝川一勝の子。通称は彦右衛門,左近将監で,受領名伊予守を称したこともある。織田信長に仕え,伊勢・伊賀攻めに活躍,織田信雄のもとで伊勢国司北畠氏との戦に戦功をあげ,永禄12(1569)年には大河内城攻撃の功によって北伊勢5郡を与えられている。その後,伊勢長島一向一揆との戦においても織田軍の中心となり,一揆を全滅させたあと長島城主となった。伊勢水軍を配下に置いたため水軍の将としても活躍する。天正10(1582)年の武田勝頼攻めのときの功により,上野国と信濃国のうち佐久郡,小県郡を与えられ,厩橋城の城主となり,同時に関東管領を命ぜられる。そのとき,信長から褒美としてもらえると期待していた珠光小茄子(茶入れ)がもらえず,「茶の湯の冥加もつき果てた」と茶の湯仲間に手紙で伝えたことは有名。その直後,本能寺の変がおこり信長が殺されると,それまで信長サイドで動いていた北条氏政・氏直父子が上野の奪回に動き出し,武蔵・上野の国境を流れる神流川で両軍の戦いがおこり,一益は完敗して本領の伊勢長島に逃げ帰った。結果的にはこの行為がその後の一益の一生を決めたことになる。信長の後継者を決める清洲会議に一益は出席できず,この席上豊臣秀吉と対立した柴田勝家と共同行動をとることになったが,勝家が賤ケ岳の戦で敗れ,織田信孝も自刃させられたあと,北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏。秀吉は一益の子一時に1万2000石を与えて家督を継がせている。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「滝川一益」の意味・わかりやすい解説

滝川一益
たきがわかずます
(1525―1586)

安土(あづち)桃山時代の武将。織田信長の老臣。左近将監(さこんのしょうげん)。号は不干。滝川氏は紀氏の一族、河内高安荘司(かわちたかやすのしょうじ)。近江(おうみ)(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼年から鉄砲を稽古(けいこ)した。一族の高安某を殺害し国を離れ、信長が斎藤道三(どうさん)を攻めたとき仕官。1574年(天正2)、伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっこういっき)の平定後に、長島城主となる。82年甲州遠征の先鋒(せんぽう)となり、その功により上野(こうずけ)国(群馬県)および信濃(しなの)国(長野県)佐久(さく)・小県(ちいさがた)の二郡を与えられ、関(かん)八州を守り、上野厩橋(うまやばし)(前橋市)城主となる。本能寺の変後に北条(ほうじょう)氏直と神流川(かんながわ)に戦い敗れ、本領伊勢に帰る。翌年神戸信孝(かんべのぶたか)、柴田勝家(しばたかついえ)と同盟して、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と争うが、降伏。84年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで徳川家康に敗れる。越前(えちぜん)大野(福井県大野市)に引退。茶道の造詣(ぞうけい)が深い。

[奥野高広]

『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「滝川一益」の意味・わかりやすい解説

滝川一益
たきがわかずます

[生]大永5(1525).近江,大原
[没]天正14(1586).9.9. 越前,大野
安土桃山時代の武将。左近将監と称する。織田信長に仕え,天正2 (1574) 年伊勢の長島一揆を平定,長島城主となった。同 10年武田氏滅亡により上野厩橋城主となったが,本能寺の変後,北条氏に敗れ,長島に帰る。柴田勝家と結び豊臣秀吉と戦ってくだり,同 12年7月織田信雄,徳川家康らと小牧山に戦って敗れ (→小牧・長久手の戦い ) ,出家した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「滝川一益」の解説

滝川一益 たきがわ-かずます

1525-1586 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)5年生まれ。織田信長につかえ,伊勢(いせ)(三重県)長島一揆の平定後,長島城主となる。本能寺の変後,柴田勝家とともに豊臣秀吉に対抗したが降伏。天正(てんしょう)12年小牧・長久手(ながくて)の戦いで秀吉側につくが,徳川家康に敗れて越前(えちぜん)(福井県)大野に引退。天正14年9月9日死去。62歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称は彦右衛門,左近将監(しょうげん)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「滝川一益」の解説

滝川一益
たきがわかずます

1525〜86
安土桃山時代の武将
近江(滋賀県)の人。織田信長に仕え,伊勢(三重県)長島一揆を平定。武田氏滅亡後,関東管領として上野 (こうずけ) (群馬県)厩橋 (うまやばし) (前橋市)を居城とした。後北条氏と戦い敗れ伊勢長島に帰り,賤ケ岳の戦い(1583)後豊臣秀吉に服し,'84年小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れ,妙心寺で出家,不遇のうち越前(福井県)で没した。

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世界大百科事典(旧版)内の滝川一益の言及

【賤ヶ岳の戦】より

…1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。…

※「滝川一益」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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