熊野村(読み)くまのむら

日本歴史地名大系 「熊野村」の解説

熊野村
くまのむら

[現在地名]熊野町 中溝なかみぞ城之堀じようのほり一帯

瀬野せの川の支流熊野川の上流にある標高二〇〇メートル前後の小盆地の大半を占める。周囲を四〇〇―六〇〇メートル級の山々に囲まれるが、熊野川下流の熊野跡くまのあと村・上瀬野かみせの(現広島市安芸区)方面はもとより、盆地の南半から二河にこう川が南下しているので、呉方面への交通は比較的容易であり、また、矢野やの峠を越えれば一〇キロほどで広島湾岸の矢野村(現安芸区)に達する。東の黒瀬くろせ盆地(現賀茂郡黒瀬町)には亀割かめわり峠やささヶ峠などで通じていた。当地から四周に通じる交通路は、各時代を通じて主要路であった瀬野川沿いの道の間道として機能したと思われる。「芸藩通志」に「此村の名は、村内に熊野社を置く、故に名くかと思ゆれど、中古は橋賀村とも呼びぬ、はしかは端辺の意にて、郡の端に居る義によるにや、さればくまのも、本は隈の義、後村名によりて、熊野社を勧請せしやも知べからず」と記すが、熊野村を橋賀はしが村と称した例は見当らない。

当地は熊野跡村とともに、建治三年(一二七七)のものと思われる小槻有家申状(壬生家文書)に「御祈願所領安芸国阿土熊野保ハ、朝治(小槻)(曾祖)父広房、文治四年ニ本領主貞宗か寄文を得て多年知行、建久七年ニハしめて宣旨を申下し候」とみえる阿土熊野保にあたり、文治四年(一一八八)本領主某貞宗から小槻広房に贈与され、建久七年(一一九六)壬生官務家領として正式に立保されたことがわかる。御祈願所領とあるから、本家職は皇室にあり、小槻氏の権益は領家職であろう。


熊野村
くまのむら

[現在地名]塩山市熊野

南西流するおも川の右岸にあり、対岸は牛奥うしおく村・西之原にしのはら村、北は下於曾しもおぞ村。地名は熊野権現の鎮座によるが、古くは応仁元年(一四六七)一二月九日の同社棟札銘にみえるように、御座ござ横井よこい村とよんだという(甲斐国志)。天正二年(一五七四)三月二八日の武田家朱印状写(甲州古文書)勝沼かつぬま(現勝沼町)・熊野両郷とみえ、石原備後守の知行分の両郷から田屋・屋敷・棟別六間と被官屋敷などが割かれて武田氏の重臣跡部大炊助(勝資)に給与されている。武田氏滅亡後の同一〇年一二月九日の徳川家印判状写(記録御用所本古文書)では、田沢久助に当郷のうちで三〇貫文などが本領として安堵され、一二月一二日には「熊野河田」内の夫丸一人などが志村又右衛門尉(貞盈)に安堵された。翌一一年九月二八日の徳川家印判状写(譜牒余録)では、もと山県昌景の与力広瀬美濃守(景房)に熊野惣領分内秋山源三分四〇貫文が新知行として宛行われ、同年四月一八日の徳川家印判状写(土屋文書)では、熊野のうち二五貫文、熊野惣領一貫文などが熊野社領として安堵されている。


熊野村
くまのむら

[現在地名]筑後市熊野

羽犬塚はいぬづか村の北、やま川右岸に位置する。中世は広川ひろかわ庄のうち。江戸時代初期まで坂東寺ばんどうじ村と称したが、延宝七年(一六七九)以降宝暦一四年(一七六四)の間に熊野村と改称した(筑後市史)。室町期の大鳥居知行所領注文(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)に「坂東寺地下仁太郎兵衛」がみえ、当地の太郎兵衛が質に入れていた水田みずた庄内ほん村米名丸(米丸か)名のうちの田五反を買取ったが、溝口氏によって押領されていた。元亀元年(一五七〇)八月、多久たく(現佐賀県多久市)城主小田鎮光は龍造寺隆信の娘婿でありながら、大友勢の先手となって敗れ、筑後に出奔し当地で浪々していたという(九州記)。翌二年、坂東寺金屋かなやの平井鎮直によって鋳造された梵鐘が島津忠良から加世田かせだ(現鹿児島県加世田市)日新じつしん寺に寄進されている(同年三月吉日「加世田日新寺鐘銘写」島津忠良系図/鹿児島県史料 旧記雑録拾遺諸氏系譜三)


熊野村
くまのむら

[現在地名]下関市大字熊野・三河みかわ町・大学だいがく町の各全域、および大学町一―二丁目の各一部

現下関市の西部にあたり、村内北部に(一三九・五メートル)がそびえる。低山に囲まれた山あいの村で、西は稗田ひえだ、東はいちみや、北は伊倉いくら、南は幡生はたぶの各村に接する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。

建仁三年(一二〇三)の赤間神宮所蔵文書に

<資料は省略されています>

とあり、熊野の地三町が赤間あかま神宮の神田として奉免されている。

慶長一五年(一六一〇)検地帳によれば、伊倉・熊野・稗田で合石記載される(→稗田村


熊野村
ゆうのむら

[現在地名]西川町睦合むつあい

寒河江さがえ川左岸に熊野川が合流する西方沖積地にあり、両河川の氾濫で、川欠けや洪水の被害が多い。東は熊野川を境に宮内みやうち(現寒河江市)、南は寒河江川を境にして吉川よしかわ稲沢いなざわ。北寒河江庄熱塩あつしお郷のうちで、白岩大江氏領であった。元亀二年(一五七一)熊野くまの神社に奉納した鰐口が現存し、銘に稲荷大明神とある。また慶長一七年(一六一二)の棟札が残り、本願佐藤弥七郎とある。村名および河川名は熊野権現からきたもので、山伏西光院が別当をしている。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領、寛永一五年(一六三八)幕府領、安政三年(一八五六)以降松前藩領。元和八年の高二七八石余(西村山郡史)


熊野村
くまのむら

[現在地名]高月町熊野

西阿閉にしあつじ村の北西に位置し、東部は南流する余呉よご川右岸平地、西部は琵琶湖を望むしずたけ山系に連なる山地。桜尾さくらおに古墳がある。寛永石高帳によると高六七〇石余で彦根藩領。文久二年(一八六二)上知、慶応元年(一八六五)同藩預所となる。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数一九五、うち寺社方八。貞享五年(一六八八)の庄屋以下連署覚書(熊野区有文書)によれば、延宝六年(一六七八)頃西阿閉村との境争論があった。用水は余呉川今井いまい堰から取水。安永三年(一七七四)同井上流の井組に属する重則しげのり村などと水論を起こしている(伊香郡志)


熊野村
くまのむら

[現在地名]八雲村熊野

西岩坂にしいわさか村の南西部に位置し、意宇いう川流域を占める。熊野大社の鎮座地として古代から開け、出雲文化発祥の地ともいわれる。「出雲国風土記」意宇おう郡条に「出雲神戸」があげられ、郡家の南西二里二〇歩にあり、熊野加武呂命(熊野神社の祭神)に奉献された神戸と説明されている。また「日本書紀」神代上に「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ」とある。


熊野村
くまのむら

[現在地名]小浜市熊野

次吉つぎよし村の北、国富くにとみ平野の最奥に位置し、北東は志積しつみ坂を経て志積浦、北は山を隔てて犬熊いぬくま浦。近年まで犬熊浦の人は熊野越と称し当村へ下って小浜へ出た。口熊野・奥熊野の二集落からなる山間の農村。中世には国富庄に属した。建久六年(一一九五)一二月四日付太政官符(吉川半七氏旧蔵文書)に「熊野北作参町段弐佰拾歩内」、下って文明九年(一四七七)の羽賀寺寄進札に「熊野村 施主妙清敬白」とある。中世末期には羽賀はが寺寺領があり、文禄四年(一五九五)一〇月一〇日、国主木下勝俊から「為寺領国富内熊野村内にて五拾石令奇進候、但定納弐拾五石、従代官前可被取之状如件」という判物が出されている(羽賀寺文書)


熊野村
いやむら

[現在地名]御坊市熊野

岩内いわうち村の東にあり、北はとび山を境に野口のぐち村。「続風土記」は「由也」と訓を付す。天正年間(一五七三―九二)湯河直春が当村を下富安しもとみやす村の鳳生ほうしよう寺に寄進したため、当村・岩内村としま村の間で入会山の湯屋ゆや(熊野山)をめぐって山論があった(→島村。慶長検地高目録の間藤家本には「施屋村」、和歌山県立図書館本には「遊屋村」とあり、村高四七七石余、小物成一斗二升七合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では村高はあまり変わらず、町数三七町一反余、家数四三で内訳は本役二一・半役八・無役一〇・庄屋一・年寄二・ありき一、人数一六八、牛二五、馬七、池一六、御蔵一。


熊野村
くまのむら

[現在地名]日野町熊野

平子ひらこ村の北東、綿向わたむき山南西麓にある山間の村。元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」に熊野南庄・同北庄とあり、両庄とも坂本日吉社の季節神供・相撲会浴布料所として権祝友仲の知行下にあった。天文一四年(一五四五)の中西興政伊勢太神宮御師株売券(来田文書)、および同一六年の南倉弘俊伊勢太神宮御師株売券(同文書)によれば、「熊野里」が御師株売買の対象となっていた。

寛永一〇年(一六三三)山城淀藩領となり、以後、領主の変遷は野田のだ村に同じであったと考えられる。寛永石高帳によれば高一〇九石余。慶安二年書上では田七五石余・畑屋敷二五石余、川欠八石余。


熊野村
くまのむら

[現在地名]輪島市熊野町

いち村の南、河原田かわらだ川中流東岸の段丘に立地。村名は熊野宮があったことに由来するという(能登志徴)正保郷帳に村名がみえ、高一一三石余、田方五町・畑方二町五反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一一四石余、免六ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二五石、免六ツ三歩、小物成は山役八四匁、苦竹役三匁(出来)、鳥役一匁(出来)、漆役一四匁・蝋役五匁(三箇国高物成帳)。寛文期の百姓数一二・下百姓数二(「草高免付品々帳」直井文書)


熊野村
くまのむら

[現在地名]豊後高田市平野ひらの 熊野

くち村の東に位置し、かつら川支流の熊野川上流域の狭隘な地。当地の胎蔵たいぞう寺が所蔵する建武四年(一三三七)一二月一五日銘の懸仏に「六郷本山今熊野御正体也」とみえる。長享二年(一四八八)と推定される二月吉日の永政龍綱譲状案(永弘文書)によると、龍綱は「田染庄熊野地ゆの木田」を「千代一御れう」に譲り渡している。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳では高一〇八石余、家数二八(うち百姓六、隠居・庭屋など二二)・人数四二(うち百姓六、名子・下人八)、牛八。


熊野村
くまのむら

[現在地名]常滑市熊野町・唐崎からさき

海岸を南北に走る西浦にしうら街道沿いの小村。北と東は西阿野にしあの村、西は伊勢湾、南は古場こば村に接する。村名は、村のやや北寄りにある氏神の熊野神社(三社権現)に由来。「寛文覚書」によれば、概高六六石余、田四町九反余・畑一町八反余、家数一四、人数五六。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によると、元和六年(一六二〇)付家老竹腰山城守の給知であった。


熊野村
いやむら

[現在地名]大塔村熊野

日置ひき川の支流熊野川に沿う山間集落で、東は上木守かみこもり村・下木守村、北は半作はんさ嶺と百間ひやつけん山を結ぶ稜線で下川上しもがわかみ村と境される。「続風土記」に「今猶弥谷いやといふ、弥谷は四面山嶺重畳せる谷の義なり、伊也転じて由也となり遂に熊野の字を用ふ、本義を去る事遠ふし」と記される。慶長検地高目録には「伊屋村」と記され、村高七九石余、小物成一・九〇八石。


熊野村
くまのむら

[現在地名]一色町前野まえの

市子いちご川左岸、一色村の東にある。開発者が熊野(現和歌山県)からの移住者であるのにちなんでの命名という(一色町誌)。南隣の前後ぜんご村を徳川の家臣鈴木八右衛門が永禄七年(一五六四)に拝領しているから(前後村鈴木家系譜)、開発もそれ以前と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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