出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
明治から昭和期の外交官、政治家。文久(ぶんきゅう)1年10月22日薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。大久保利通(おおくぼとしみち)の次男。牧野家を継ぎ、1871年(明治4)岩倉具視(いわくらともみ)らの遣外使節に父に同行してアメリカに留学。1880年外務省書記生としてロンドンに在勤中、伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を受け、帰国後、福井・茨城両県知事、文部次官、イタリア公使、オーストリア公使を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文相、1907年男爵となり、その後、枢密顧問官、第二次西園寺内閣の農商務相のち文相を兼任、第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の外相、臨時外交調査委員を歴任した。1919年(大正8)パリ講和会議全権、1920年子爵(1925年伯爵)、1921年宮内大臣、1925年から1935年(昭和10)まで内大臣を務めた。薩摩派の巨頭といわれ、元老西園寺と親しく、親英米派宮廷勢力の中心人物として活躍したため、二・二六事件の際襲撃されたが、難を免れた。吉田茂(よしだしげる)は女婿(じょせい)。昭和24年1月25日死去。
[木坂順一郎]
『牧野伸顕著『回顧録1~3』(1948~1949・文芸春秋新社)』▽『牧野伸顕著、伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顕日記』(1990・中央公論社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(伊藤隆)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
政治家,外交官。鹿児島出身。大久保利通の次男で,のち牧野家の養子となる。開成学校(東京帝国大学の前身)を中退し,1871年(明治4)岩倉使節団の大久保に従い渡米・留学する。80年外務省に入りロンドンに在勤し,伊藤博文に知られる。その後参事院議官補,法制局参事官,首相秘書官,内閣記録局長等を経て福井,茨城各県知事,文部次官に就任した。97年イタリア,99年オーストリア公使等を歴任して第1次西園寺公望内閣の文相となった。1909年枢密顧問官,第2次西園寺内閣の農商務相,第1次山本権兵衛内閣外相,臨時外交調査会委員となる。この間14年貴族院議員に勅選。19年パリ講和会議に次席全権として赴いた。21年宮内大臣,25年内大臣として元老西園寺を背景に宮廷の実権を握り,準元老的存在として官僚・政党・財閥・軍部間の利害を調整する役割を演じた。しかし軍部の台頭とともに親英米派,現状維持派の非難を受け,二・二六事件で襲撃されたが難を逃れ,以後,帝室経済顧問,東亜同文会会長等を務めた。25年伯爵。のちの首相吉田茂はその女婿。《回顧録》(全3巻)がある。
執筆者:金原 左門
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1861.10.22~1949.1.25
明治~昭和期の政治家。伯爵。大久保利通(としみち)の次男。薩摩国鹿児島に生まれ,牧野家の養子となる。岩倉遣外使節団に同行してアメリカに留学。開成学校(のち東大)中退後,外務省出仕。黒田首相秘書官・文部次官・駐伊公使・駐オーストリア公使などをへて,1906~08年(明治39~41)第1次西園寺内閣の文相。のち枢密顧問官・農商務相・外相。19年(大正8)パリ講和会議全権委員。21年宮内相,25~35年(大正14~昭和10)内大臣。国際協調・立憲政治擁護の立場から摂政宮(のち昭和天皇)を補佐したが,急進派青年将校からは親英米派・自由主義者と目され,5・15事件,2・26事件で襲撃目標とされた。吉田茂は女婿。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ベルサイユ講和会議では賠償問題委員会副委員長となり,ドイツ領ニューギニアを自国の委任統治領として獲得した。また日本代表牧野伸顕と白豪主義問題で渡り合った。さらに国際連盟憲章への人種平等条項挿入に反対し,これを葬り去った。…
※「牧野伸顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新