獅子窟寺(読み)ししくつじ

日本歴史地名大系 「獅子窟寺」の解説

獅子窟寺
ししくつじ

[現在地名]交野市私市

普見ふけん山の中腹、北西に大阪府・京都府境の連峰、南西に大阪平野を見渡す眺望に優れた景勝地にある。境内付近一帯は生駒山地特有の深層風化で露出した花崗岩で、奇岩・巨岩が多く、獅子窟また私市の岩屋きさいちのいわやとよばれる。高野山真言宗、山号普見山、本尊薬師如来

永正四年(一五〇七)真海書写の獅子窟縁起によれば、役行者開創の薬師浄土の霊場で、山中の負掛石と竜池は彼の遺跡という。ついで行基が五畿内に四九院建立のため材木を「葛木(連カ)峰」に採りに入り、当山岩窟で薬師如来に対面したとし、葛木縁起を引用して窟内の奇勝を述べる。その後堂宇は朽損するが、保元年間(一一五六―五九)寛仲が本堂・鎮守三所社壇を造営、数宇の僧坊を作り復興したとする。一方、元禄五年(一六九二)寺僧の伝聞をもとに黄檗僧月潭が撰した獅子窟寺記(寺蔵)では、文武天皇の頃役行者が薬師浄土を開き、聖武天皇の勅願で行基が諸堂を建立、岩窟を中台金剛般若窟と称し、天長年間(八二四―八三四)弘法大師がこの山で仏眼仏母の法を修したとする。いずれにしても、「諸山縁起」が葛城山北峰の宿として「獅子石屋」をあげるので、平安時代には葛城修験の山岳霊場であったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「獅子窟寺」の意味・わかりやすい解説

獅子窟寺
ししくつじ

大阪府交野市私市 (きさいち) にある高野山真言宗の寺。元禄5 (1692) 年に記された寺伝によると,最初役小角が薬師浄土を開き,その後聖武天皇の勅願によって行基が堂宇を建立したとされる。寺名は,咆哮する獅子の口に似た岩窟で開山者らが修行し,空海が仏眼仏母の法を修したことに由来するという。鎌倉時代には亀山法皇の尊崇を得,盛時には 12の塔頭を有したが現存するのは1つのみである。元和1 (1615) 年大坂夏の陣に際し全山が焼払われ,寛永年間に再興。平安初期の作である本尊『薬師如来坐像』はヒノキ一木造翻波式衣文のすぐれたもので国宝。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「獅子窟寺」の意味・わかりやすい解説

獅子窟寺
ししくつじ

大阪府交野(かたの)市私市(きさいち)にある高野山(こうやさん)真言宗の寺。普見山(ふけんざん)と号する。本尊の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)(国宝)はカヤの木の一木造(いちぼくづくり)で、行基(ぎょうき)が3年3か月を費やして刻んだ像(92センチメートル)で、授乳の霊験が著しいと伝えられている。寺伝によれば、聖武(しょうむ)天皇の勅願によって行基が堂塔を建てたという。山上の寺内には獅子吼(ししく)像を思わせる岩窟があり、当山を開いた人たちがこの窟内で修行して以来、獅子窟寺と称するようになった。盛時には塔頭(たっちゅう)が12院あったが、大坂の陣(1614、15)で焼失した。現在は本堂、庫裡(くり)、経蔵(きょうぞう)があり、仁王門と鐘楼堂は基礎のみを残す。

[野村全宏]

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