翻訳|biophysics
物理学的な考え方、法則性を基にして、生命現象の基本的・統一的理解に到達することを目ざす学問分野。生体高分子の物性と構造形成、分子遺伝、生体の運動、運動生理(筋収縮)、エネルギー代謝、感覚受容、脳と神経系の生理、細胞の分化・増殖の制御機構など、ミクロ(量子的・分子的)レベルから巨視的レベルまでその研究対象・分野は今日なお広がりつつある。
[荒川 泓]
1932年、ボーアが「光と生命」と題する講演において、量子力学における相補性概念を生命現象へと拡張する形での問題提起を行い、1944年にはシュレーディンガーの著書『生命とは何か』が出版された。後者はその10年後に成立する分子遺伝学への基本路線を示すものとしての先駆的役割を果たし、1940年代後半から1950年代にかけて物理学者、生物学者双方に大きな影響を与えた。この書でシュレーディンガーの立論に論拠を与えているM・デルブリュックは、ボーアの1932年講演に関心を喚起されて、それまでの量子物理学の研究から遺伝の研究に入っている。彼は1930年代後半からアメリカ(カリフォルニア工科大学)でバクテリオファージを材料とした研究を進め、ルリアらとともにファージグループを結成して研究を展開し、分子生物学における「情報論学派」の創始者となった。
[荒川 泓]
生物物理学としての研究の流れは1930年代後半から1940年代なかばにかけて具体的な形をとり始めた(1945年、デルブリュック、ハーシェイ、それぞれ独立にファージの遺伝的組換え現象発見)。1940~1950年代においてその流れの中軸となったのは分子遺伝学・分子生理学を主内容とする分子生物学成立へ向けての動きである。その最大の画期をつくったのが1953年のワトソンとクリックによるDNA(デオキシリボ核酸)二重螺旋(らせん)模型の提起である。
DNA分子構造解明の直接の前提となったのが、以上のデルブリュックに始まる分子生物学情報学派の研究成果(ハーシェイ、チェイス、DNAが遺伝物質であることのトレーサーによる確認、1952年)と、W・L・ブラッグ、アストバリー、バナールに始まるイギリスX線構造解析グループを中心とするタンパク質・核酸など生体高分子のX線構造解析の成果である。ルリアのもとでファージグループで育ったワトソンが、ケンブリッジグループのウィルキンズによるDNAのX線解析の報告を聞いて触発され、ケンブリッジ医学研究班に加わり、クリックと共同研究を始めた。ワトソンは分子生物学情報学派と同構造学派との橋渡しをしたことになり、このDNA構造解明は遺伝の機構を分子的に説明するための土台となった。その中心課題は、DNA中に暗号化されている情報が細胞内でどのようにして発現していくかということであり、1960年代なかばまでに基本的に明らかにされた。1954~1955年ガモフらの遺伝暗号に関する論文、1961年F・ジャコブ、J・L・モノーらのメッセンジャーRNA(リボ核酸)仮説、ニーレンバーグ、マタイJ. Heinrich Matthaeiおよびオチョアらの遺伝暗号に関する実験、1964年ニーレンバーグ遺伝暗号トリプレットの確立、1966年アメリカでの国際会議で解読された暗号の確認などである。1958年にクリックは核酸からタンパク質に至る情報の流れに関して分子生物学のセントラルドグマ(基本原理)を提唱、1970年のRNAからDNAへの逆転写酵素の発見も含め、生命現象探求の基礎として内容的に確立された。かくして、生体高分子物質としての核酸・タンパク質の構造と機能、およびそれを土台とした生物諸現象の統一的理解という意味での分子生物学は、ワトソン‐クリックモデル以後約20年で体系的に確立されたといってよい。
[荒川 泓]
以上述べてきたように、分子レベルから生物系をみる立場に対して、生物系の営む機能を、広い意味での熱力学の対象として、よりマクロにみる立場がある。生物体は低エントロピーすなわち高自由エネルギーの物質を多量に含み、それは熱を通じないで直接そのエネルギーを仕事に変える。たとえば筋肉はATP(アデノシン三リン酸)という高自由エネルギー物質を用いて化学的エネルギーをそれより高級な機械的エネルギーに転化する機関であり、神経系は化学的エネルギーを電気的エネルギーに転換して作動する機関とみられる。この場合、ATPなど高自由エネルギー(低エントロピー)物質の生成には、生体系としてかならずエントロピーの増える過程が随伴しており、熱力学第二法則は全体として成り立っていることはいうまでもないが、それらはいわゆる熱機関ではない。また、ATPのエネルギーの究極の源泉は太陽光であり、それが熱というもっとも低級なエネルギーをまったく含まないエネルギーであることが重要である。
生物体においては、無秩序性→秩序性、秩序性→秩序性(恒常性・安定性)の両面が、個体の生から死という秩序性→無秩序性の過程のなかで貫徹しており、生物体は、「秩序の流れを自らに集中させることで崩壊して原子的な混沌(こんとん)状態になっていくのを免れるという驚くべき天賦の能力」(シュレーディンガー)をもっている。この生物学的機関が、シュレーディンガーが期待したように、本質的にこれまでの物理法則と異なった新しい物理的原理を含むものであるかどうかはまったく未知であるにしても、カルノーが熱の動力に関する考察を通じて本質的に第二法則に到達したような意味での基本的努力が今日要求されているということができよう。こうした方向での発展への一つの前提となるのが1930年代以降の非平衡熱力学・統計力学の発展である。非平衡定常系の熱力学はオンサーガー、プリゴジーヌらにより1950年代までに体系化され、とくにプリゴジーヌらの散逸構造の理論は狭義の非平衡熱力学の枠を超えて発展しつつある。そこでは、解放定常系としての生体系における調節・制御によって維持されている秩序のメカニズムの解明に向けて研究が進められている。
[荒川 泓]
遺伝情報が生物物理学の中心的課題であることはすでに述べたが、生体系を一つの自動機械・情報処理機械としてとらえて、情報伝達・情報処理の面に焦点をあわせて追究していく方向がある。チューリング、シャノン、フォン・ノイマンに出発するオートマトン理論の発展がその基礎となっている。オートマトン理論はそもそも神経回路網理論と計算の理論の両面に関連して生まれ、本来、数学の分野に近いものであり、数理言語学とも重なっている。この抽象的な理論がその物質的基礎を探る方向でより物理的な理論としてさらに発展していくとき、生物の一員としての人間の知的行動を調べていくうえで一つの基礎となるであろう。
分子レベルから生物をみる立場、広い意味で熱力学的にマクロにとらえる方向、情報論的・システム論的視点、こうした多様な方法論的観点をもつ総合体系としての生物物理学は、これまでの物理学の枠からはみでた形での方法の樹立を要求しながら、生命をとらえる新しい科学として広範な可能性を含んで今日発展しつつある。この分野の中心課題としてヒトゲノム(ヒトのすべての遺伝情報)解読の問題があったが、これは国際協力で進められ、2003年4月、日米英など6か国で「解読完了」が宣言された。精度は99.99%以上とされ、データ公開されている。日本はアメリカ、イギリスに次ぐ貢献を行っている。この成果は、病気にかかわる遺伝情報の研究など、生命科学全体の基盤となるものである。
[荒川 泓]
『日本物理学会編『生命の物理』(1971・丸善)』▽『大井竜夫・佐藤了編『岩波講座現代生物科学1 生命の物理的・化学的基礎』(1975・岩波書店)』▽『大沢文夫・寺本英編『岩波講座現代物理学の基礎8 生命の物理』(1978・岩波書店)』▽『G・ニコリス、I・プリゴジーヌ著、小畠陽之助・相沢洋二訳『散逸構造』(1980・岩波書店)』▽『猪飼篤・宝谷紘一編『生物物理学――生物工学基礎コース』(1998・丸善)』▽『永山国昭著『生命と物質――生物物理学入門』(1999・東京大学出版会)』▽『米沢富美子・立花隆著『ランダムな世界を究める――物質と生命をつなぐ物理学の世界』(2001・平凡社)』▽『A・カチャルスキー、ピーター・F・カラン著、青野修・木原裕・大野宏毅訳『生物物理学における非平衡の熱力学』(2002・みすず書房)』▽『曽我部正博・郷信広編『生物物理学とはなにか』(2003・共立出版)』▽『伏見譲編『生命の起源と進化の物理学』(2003・共立出版)』▽『E・シュレーディンガー著、岡小天・鎮目恭夫訳『生命とは何か』』▽『J・D・バナール著、山口清三郎・鎮目恭夫訳『生命の起原――その物理学的基礎』』▽『渡辺慧著『生命と自由』(以上岩波新書)』▽『今堀和友著『生命の物理学――生物物理学入門』』▽『生物物理学会編『生物物理の最前線』『新・生物物理の最前線』』▽『丸山工作著『分子生物学入門――誰にでもわかる遺伝子の世界』『新・分子生物学入門――ここまでわかった遺伝子のはたらき』(以上講談社ブルーバックス)』
狭義には,生命現象を物理的方法を用い,物理的概念で解明する研究分野である。広義には,生命現象に関連した現象の物質的基礎を明らかにする広範で複合的な境界領域をさす。現在では生化学や分子生物学と明確に区別するのが困難である。この分野の勃興時には,神秘そのものであった生命現象を,物理的法則で統一的に理解しようとし,生物学と物理学の融合が図られた。
歴史的には,1932年N.ボーアが〈光と生物〉と題した講演で生物学と物理学を結ぶ新しい学問を提唱し,45年E.シュレーディンガーが,著書《生命とは何か》で,遺伝現象と巨大分子の物理学を結びつけたことに端を発する。多くの物理学者の目が生物学に向かい,生物物理学の発展の大きな契機となった。ちなみに日本でも小谷正雄,湯川秀樹らの物理学者が日本生物物理学会の創設(1960)に努力した。1940年代以降理論物理学者M.デルブリュックに率いられて,分子遺伝学が急速に進歩し,いっぽう核酸・タンパク質などの生体高分子の構造解析の方法が発達した。53年J.D.ワトソンとF.H.C.クリックによるDNAの相補的二重らせん構造の発見,60年のペルツM.Perutzによるタンパク質として初めてのヘモグロビンの立体構造の決定がその代表的成果である。その後遺伝暗号が決定され,遺伝子の複製,転写,翻訳機構の基本的理解がなされ,分子生物学の中心ドグマと呼ばれるものが確立された。現在では,真核生物の遺伝情報の発現機構,遺伝子構造の解明,さらに発生,分化,免疫,神経などの高次の問題が生物学の主要課題となりつつある。このような分野では生物物理学は,分子生物学や生化学と比較すると,研究を推進する方法が限られているが,生体高分子の構造を解明するうえで依然不可欠といえる。現在の生物物理学は,生体高分子物性,生物運動,生体膜,生物エネルギー産生機構,光生物学,コンピューターを用いた生命現象のシミュレーションなど広範な研究分野を含んでおり,中心的な課題をもたない集合的科学となりつつある。
執筆者:柳田 充弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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