的場遺跡(読み)まとばいせき

日本歴史地名大系 「的場遺跡」の解説

的場遺跡
まとばいせき

[現在地名]新潟市的場流通一丁目

信濃川下流の左岸沖積地に所在し、海岸砂丘の内陸側を流れる西にし川右岸の低湿地・低位小砂丘上に立地している。土地区画整理事業に伴い、平成元年(一九八九)から新潟市教育委員会が発掘調査を実施した。遺跡は縄文・弥生・古墳時代と重複するが、主体は奈良・平安時代である。遺構・遺物は発掘区の砂丘の北と南斜面域に集中し、奈良・平安時代の掘立柱建物跡一四棟、土坑・溝などが検出された。大型総柱の第二号建物跡の南西隅柱の掘り形から、和同開珎二〇枚が出土し、地鎮具と想定された。

遺物量は膨大で多様な種類があり、時期は八世紀前半から一〇世紀前半頃までである。

的場遺跡
まとばいせき

[現在地名]松江市八幡町 的場

中海南岸の平野に面した低い丘陵上にある弥生時代の墳墓遺跡。昭和四六年(一九七一)に県教育委員会が発掘調査を行った。墳墓は丘陵の頂を削った一辺約一〇メートルの方形台状に整えられた墳丘墓の一種で、墳丘斜面に河原で採取した石を貼りつけている。埋葬主体部は墳頂で一ヵ所見つかっている。長方形墓壙で、中に棺を納めたものと思われる。

的場遺跡
まとばいせき

[現在地名]西川町沼山 田代

寒河江さがえ川右岸、標高二一八メートルの河岸段丘上に立地する。昭和五〇年(一九七五)農業構造改善事業に伴って発掘調査が行われた。一八六平方メートルの調査区から縄文時代晩期の竪穴住居跡三棟、後期から晩期の土壙一四基が検出された。住居跡は大洞C2式期のものが二棟、A―A′式期のものが一棟ある。円形ないしは楕円形企画で、最大径は六・二から一〇・二メートルとなる大型の住居跡である。大洞C2式に属する三号住居跡は石囲炉をもつ。甕棺墓と考えられる、三基の埋設土器も検出されている。土壙群はおおむね住居跡群よりは古く、時期の確かな例は、コブ付土器第II段階のものが一基、第III段階のものが三基、第IV段階のものが二基、大洞B式期のものが三基、大洞C1式期と、C2式期のものがそれぞれ一基検出されている。

的場遺跡
まとばいせき

[現在地名]伊賀町柏野 前沖

柘植つげ川北岸の標高一七〇メートル前後の河岸段丘上、幅約七〇メートルほどの緩やかに南へ傾斜する舌状地に位置する。昭和五三年(一九七八)の調査で掘立柱建物一一棟、石列・土壙・溝が検出されている。五間に三間の身舎に三面廂がつく建物、三間に二間の身舎に四面廂がつく建物が南面して建ち、この二つの建物の南西には三間に三間の倉庫があり、南東には三間に二間の小規模な建物が三棟以上配置されている。廂をもつ大型建物では床束が検出され、床張りの建物であったことがうかがえる。

的場遺跡
まとばいせき

[現在地名]香我美町上分 的場

香宗こうそう川左岸、字的場の標高三〇メートルほどの台地上にある。弥生時代中期後半の集落遺跡と推定される。未調査のため実態の詳細は不明だが、多くの弥生時代中期後半の竜河洞式土器片が発見されており、室戸市周辺産と思われる閃緑岩で作った太形蛤刃の磨製石斧も発見されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報