石崎村(読み)いしざきむら

日本歴史地名大系 「石崎村」の解説

石崎村
いしざきむら

[現在地名]七尾市石崎町・和倉町わくらまち光陽台こうようだい

七尾南湾の西端に位置し、祖浜そはま村の北にある。屏風びようぶ瀬戸を間に対岸は須曾すそ(現能登島町)。天文一三年(一五四四)京都東福寺前住持彭叔守仙が撰した「独楽亭記」に石崎とみえ、七尾城の北方眼下に望む七尾湾の景勝が詠まれている。戦国後期頃には、二本松氏(守護畠山氏一族)や遊佐氏などの所領があった(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)

能登守護畠山氏から能登・越中一円の漁業権を免許されたとの伝承があり、天正一四年(一五八六)七月一一日の前田利家餌取免状(石崎漁業協同組合文書)の宛先に「石崎浦百姓中」とみえる。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高二一五俵余が土方領。うち三割五分は百姓得分。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]平舘村石崎

東は平舘海峡に臨み、北は津軽海峡に面する。南は平舘村、西はからす(五六〇・九メートル)袴腰はかまごし岳を隔てて一本木いつぽんぎ村・鍋田なべた(現今別町)に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳によれば、平舘村の支村として村名があり、村高わずかに二・九九石。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下(平山日記)。享保一一年(一七二六)平舘村より独立した(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)。支村に頃々川ころころがわ宇田うたがあり、家数は寛政二年(一七九〇)には本村五軒、頃々川五軒、宇田四軒(北行日記)、享和二年(一八〇二)には七軒、五軒、四軒であった(測量日記)


石崎村
いしざきむら

[現在地名]函館市石崎町・白石町しろいしちよう鶴野町つるのちよう

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。現市域の南東端にあり、南は津軽海峡。地名について「地名考并里程記」に「此所石の出崎なる故、和人地名になすと云」と記される。近世は東在の村で、元禄郷帳・天保郷帳ともに石崎村と記す。寛永一〇年(一六三三)巡見使が来島、松前より東は汐泊しおとまり・石崎まで見分した(松前年々記・検考録)シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」に石崎とみえ、家一〇軒があった。東の小安おやす(現戸井町)との間に「一 やちまき 狄おとなコトニ持分 家十三軒から家也」「一 たか屋鋪 家六軒から家也」が記されている。享保十二年所附に「一 石崎村 中在所」とみえ、続けて「一 白石村 此所迄一里 平太在所 屋起まき」「一 高屋鋪村」とある。「松前随商録」によれば「イシサキ」の出産は鮭・秋味・昆布。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]北野町石崎

筑後川中流右岸に位置し、東は高良こうら村に接する。薩摩街道(坊津街道)筋の要衝で、筑後川対岸の神代くましろ(現久留米市)への渡船が置かれた(在方諸覚書)。文亀二年(一五〇二)三井郡内の「石崎」一二町などが草野重永に宛行われている(同年三月三日「大友親治充行状案」草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)。永正五年(一五〇八)「石崎村」一二町など八ヵ所は大友義長により高良社(現久留米市)領とされた(同年一一月三日「高良山領坪付」高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)


石崎村
いしざきむら

[現在地名]五城目町大川石崎おおかわいしざき

馬場目ばばめ川下流左岸の小集落。東は谷地中やちなか村・西野にしの村、西は下樋口しもとよぐち村、南は北川尻きたかわしり村支郷海老沢えびさわ(現井川町)に接する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百六拾九石七斗六升三合 石崎村 屋ち中村」とあり、翌文禄元年(一五九二)秋田実季分限帳(秋田家文書)に「弐百四石六斗七升五合 石崎村」とある。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]檜山郡上ノ国町字石崎・字館野たての・字早川はやかわ

近世から明治三五年(一九〇二)まで存続した村。羽根指はねさし村の南に位置し、東部は山地が連なり、西は日本海に面する。東部山地からの左股ひだりまた川・にごり川などの支流を集めて石崎川が西流し、日本海に注ぐ。「福山秘府」に「比石即今石崎古名也」とあり、古くは比石ひいしと称され、石崎川河口南岸に道南十二館の比石館があった。寛永一〇年(一六三三)幕府巡見使一行は七月一〇日に松前に着き、一一日に火石(比石)に止宿している(松前年々記)。「地名考并里程記」に「地名和語なるべし。此れ川尻は石の崎なる故和人かく号たる」とある。「津軽一統志」に「石崎」とみえ、家二三軒。元禄郷帳・天保郷帳に村名がみえる。享保十二年所附には石崎村と「おさ内村」がみえる。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]利尻りしり郡利尻富士町鬼脇おにわき二石ふたついし・字石崎・字旭浜あさひはま・字鰊泊にしんとまり

明治一一年(一八七八)一〇月に成立し、同三五年まで存続した利尻郡の村。鬼脇村の北に位置する。明治八年七月に利尻・礼文れぶんの両島を巡視した開拓使大主典佐藤正克は日記(道立図書館蔵写本)に当村について次のように記している。「ニチントマリ家二、倉三アリヲ経、小丘ヲ上ル。東海ヲ望ミ、隔陸地ヲ見ルバツカイ地方。下リテ十一時半アフトロヲマナヰ某ノ家金子元右衛門ノ漁場地ニ午餉ス。此地四、五ノ家アリ。十五、六ノ倉庫アリ。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]佐土原町下那珂しもなか

石崎川右岸に位置し、東の砂丘との間に沖積平野が広がる。東は日向灘に面し、北は袋広瀬ふくろひろせ村。村域は現在の下那珂東端部にあたる。中世の石崎郷の遺称地。寛文四年(一六六四)の佐土原藩領知目録(佐土原島津家文書)に村名がみえ、同七年の佐土原藩領之図(県立図書館蔵)では高三〇〇石余。貞享元年(一六八四)・宝暦一一年(一七六一)の佐土原藩領郷村高辻帳(佐土原島津家文書)でも村高に変化はない。寛政四年(一七九二)六月二三日、高山彦九郎海路村(現宮崎市塩路か)から当村に入って日没を迎え、庄屋の案内を得て三〇間ほどの板橋を渡って広瀬村に入っているが(筑紫日記)、板橋は石崎川に架かるものであろう。


石崎村
いしざきむら

[現在地名]筑紫野市石崎・むらさき五―六丁目・二日市南ふつかいちみなみ三丁目・上古賀かみこが二丁目

針摺はりすり村の西にあり、北西は二日市村。日田街道が北西から南東へ通る。慶長七年(一六〇二)の検地の際は針摺村の内(慶長石高帳)。慶安元年(一六四八)に開発が行われ、のちに別村となった(続風土記拾遺)元禄国絵図に針摺村枝郷として村名がみえる。石高書上帳案では郡帳高一六一石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数二四・人数一〇〇、牛六・馬五(別本「続風土記附録」)


石崎村
いしざきむら

[現在地名]二丈町石崎

長石ながいし村の北西に位置し、西は河原かわばる村。寛文四年(一六六四)の肥前唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。元禄国絵図では高四二一石余。領主の変遷は松末ますえ村と同じ。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高四二四石余(うち明和四年から同六年までの出高二石余)


石崎村
いしざきむら

[現在地名]君津市加名盛かなもり

小櫃おびつ川左岸の下関したせき村の北東にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に「岩崎村」とみえ、高一八九石。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に石崎村とみえ、久留里藩領となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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