改訂新版 世界大百科事典 「石谷貞清」の意味・わかりやすい解説
石谷貞清 (いしがいさだきよ)
生没年:1594-1672(文禄3-寛文12)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(しらが康義)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
江戸前期の幕臣、町奉行(ぶぎょう)。祖父政清は遠江(とおとうみ)(静岡県)に在住、今川氏滅亡期に徳川家康に仕える。通称十蔵。貞清は初め大番、その後目付に進み、1500石。島原の乱に際して、幕軍の主将板倉重昌(しげまさ)とともに副将として出陣、1638年(寛永15)正月、一揆(いっき)軍のこもる原城総攻撃で重昌は戦死、貞清は負傷する。乱後、指揮の責任をとらされ逼塞(ひっそく)。のち江戸の町奉行(北)となる。
[煎本増夫]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…幕府はこうした事態を憂慮して,幕政の方針を武断から文治へと転換し,浪人の寄住制限を緩和する一方,浪人発生の要因となる大名,旗本の改易にも手心を加えた(世嗣のない者のうち,50歳以内の者には末期養子(まつごようし)を認める)。また,幕閣首脳者による浪人の再仕官の斡旋も行われるようになり,町奉行石谷貞清(いしがいさだきよ)は終生に1000人もの浪人を諸家に世話したという。しかしこの後も,浪人はさまざまな理由によって絶えず発生し,明治に至った。…
※「石谷貞清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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