デジタル大辞泉
「空也堂」の意味・読み・例文・類語
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くうや‐どう‥ダウ【空也堂】
- 京都市中京区亀屋町にある極楽院光勝寺の通称。天台宗。山号紫雲山。天慶年間(九三八‐九四七)平定盛が空也を開基に創建。空也念仏の本寺。空也堂極楽院。空也寺。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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空也堂
くうやどう
[現在地名]中京区亀屋町
堀川通の東、蛸薬師通に面する。紫雲山光勝寺と号し、正式には空也堂極楽院という。天台宗。本尊空也立像。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔開創〕
「空也上人絵詞伝」は、「上人天慶の頃、嵐山にすみたまひしか、衆生利益の為に平安城に出、念仏弘めんと思召、東方に向ひていづくにか住すへしと、居所を遠望有しに、三条櫛笥といふ処に紫雲立のほり、其所に寺院をむすひ市中道場極楽院と号し、念仏を弘め給ふ」と述べ、創建の地は三条櫛笥小路(現中京区今新在家西町)とする。時宗鉢叩念仏弘通派明細帳(空也堂文書)では天慶元年(九三八)空也の開創、第二祖は定阿弥法師(定盛法師、前鎮守府将軍平定盛)で、康保三年(九六六)一一月一三日空也より宗旨教法を授かり遺跡を継いだとする。
〔焼亡と現在地への移転〕
中世の櫛笥小路の寺は、櫛笥道場とも市中道場ともよばれ、時宗に属した。「薩戒記」正長元年(一四二八)一一月一〇日条には「依土一揆放火、空也上人御堂焼亡事」とあり、土一揆により焼かれたのはこの道場であったと思われる。その後、応仁の乱に焼亡。一時期東山西光寺に移り、寛永年間(一六二四―四四)に東福門院の寄付を得て現在地に移ったという(明治二五年八月「書上帳」空也堂文書)。なお「筆のすさび」は現在地移転を寛文二年(一六六二)とする。天台宗に属したのは明治維新以後である。
〔空也と平定盛との関係〕
「空也上人絵詞伝」「雍州府志」などは、空也が鞍馬寺(現京都市左京区)参籠から僧正谷への帰途、平定盛に会った。
空也堂
くうやどう
[現在地名]直方市植木
植木の中心部(JR筑前植木駅の南東)に位置する。寺中とよばれた植木の芸能集団が信仰してきた空也像を安置する堂で、紫貴山光勝寺と号した。植木寺中について「続風土記」は、植木宿の後ろに三〇軒ほどの芸人が住む町があり、空也を祖とする九品念仏の修行に専念し、歌舞・傀儡を生業としていると記している。また「続風土記拾遺」には「空也堂 寺中町に在。紫貴山光勝寺といふ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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空也堂
くうやどう
京都市中京区蛸薬師通(たこやくしどおり)にある天台宗の寺。紫雲山光勝寺(しうんざんこうしょうじ)空也堂極楽院(ごくらくいん)と称する。市中に念仏を広めて市聖(いちのひじり)といわれた空也が天慶(てんぎょう)年間(938~947)に開いたものという。その縁起には、平定盛(さだもり)が空也のかわいがっていた鹿(しか)を射殺したため、それを悔いて一宇を創建、空也を開山とし、自ら第2世になったとする。本尊は空也自作と伝える空也上人(しょうにん)像。毎年11月第2日曜日の開山忌には、歓喜踊躍念仏(かんぎゆやくねんぶつ)(空也踊)が修される。京都名物の一つである六斎(ろくさい)念仏踊もこれに源を発するものである。
[森 章司]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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