褚遂良(読み)チョスイリョウ

デジタル大辞泉 「褚遂良」の意味・読み・例文・類語

ちょ‐すいりょう〔‐スイリヤウ〕【褚遂良】

[596~658]中国初の書家・政治家銭塘せんとう浙江せっこう省)の人。あざなは登善。楷書隷書にすぐれ、欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなんとともに初唐三大家の一人碑刻に「伊闕仏龕いけつぶつがん碑」「雁塔聖教がんとうしょうぎょう序」などがある。

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精選版 日本国語大辞典 「褚遂良」の意味・読み・例文・類語

ちょ‐すいりょう‥スイリャウ【褚遂良】

  1. 中国初唐の政治家、書家。字(あざな)は登善。太宗高宗に仕え尚書右僕射(うぼくや)となる。王羲之の流れをくむ婉美書風は、虞世南欧陽詢とともに初唐の能書家として知られる。代表作雁塔聖教序」。(五九六‐六五八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「褚遂良」の意味・わかりやすい解説

褚遂良
ちょすいりょう
(596―658)

中国、唐代初期の政治家、書家。浙江(せっこう)省杭州(こうしゅう)、銭塘(せんとう)の人。字(あざな)は登善(とうぜん)。虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゅん)とともに初唐三大家の一人。広く文章学問に通じて唐の2代皇帝太宗(たいそう)に重んじられ、その下命を受けて東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)の筆跡の鑑定や収集整理に携わった。やがて、皇帝に近侍する諫議大夫(かんぎたいふ)(わが国の参議)、そして宮廷の文書・詔勅をつかさどる中書(ちゅうしょ)省の長官たる中書令(ちゅうしょれい)(中務卿(なかつかさきょう))に進んだ。太宗の崩御に際しては後事を託されるほどの寵幸(ちょうこう)を得たという。3代高宗のもとでは河南公(かなんこう)(河南省の知事)に封ぜられ、さらに尚書右僕射(しょうしょうぼくや)(右大臣)に至った。しかし、高宗が武氏(則天武后(そくてんぶこう))を皇后として入輿(じゅよ)することをいさめていれられず、愛州(現ベトナム北部地方)に左遷され、この地で没した。遺墨として楷書(かいしょ)の「孟法師碑(もうほうしひ)」「雁塔聖教序碑(がんとうしょうきょうじょひ)」「伊闕仏龕碑(いけつぶつがんひ)」、行書の「枯樹賦(こじゅのふ)」などが知られ、その拓本は、今日も漢字手習いの手本として人気が高い。

[名児耶明]

『中田勇次郎編『書道芸術 3 褚遂良ほか』(1972・中央公論社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「褚遂良」の意味・わかりやすい解説

褚遂良 (ちょすいりょう)
Chǔ Suì liáng
生没年:596-658

中国,唐初の書家,政治家。字は登善。銭塘(浙江省杭州)の人。即位前の太宗に信任された褚亮の子。魏徴の推薦で,太宗の書道顧問として出仕,信任を得て中書令となった。太宗の遺命をうけて高宗を補佐したが,高宗が武氏(のちの則天武后)を皇后にしようとしたのに反対し,怒りにふれて左遷され,現在の北ベトナムの愛州で憂死した。書は王羲之を宗とし,欧陽詢(おうようじゆん),虞世南(ぐせいなん)とともに初唐の三大家と呼ばれる。代表作として《雁塔聖教序(がんとうしようぎようじよ)》などがあげられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「褚遂良」の意味・わかりやすい解説

褚遂良
ちょすいりょう
Chu Sui-liang

[生]開皇16(596)
[没]顕慶3(658)
中国,初唐の書家。銭塘 (浙江省) の人。父,褚亮は秦王府十八学士の一人。字は登善。詩文,学問に長じ,欧陽詢に重んじられた。宮廷に入り王羲之の法書の鑑識にすぐれた。官は尚書右僕射 (うぼくや) にいたったがのち左遷され,不遇のうちに愛州 (北ベトナム) で客死した。書は初め虞世南を学び,のち王羲之の法を修めたという。初唐四大家の一人。河南郡公になったため「褚河南」とも呼ばれる。主要書跡に『伊闕仏龕碑 (いけつぶつがんひ) 』『雁塔聖教序』,行書の『枯樹賦』『文皇哀冊』などがある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「褚遂良」の解説

褚遂良(ちょすいりょう)
Chu Suiliang

596~658

唐初の書家。王羲之(おうぎし)の書風を継ぎ,欧陽詢(おうようじゅん)虞世南(ぐせいなん)とともに初唐の三大家といわれる。太宗のとき中書令になったが,高宗則天武后を皇后に立てるのに反対して左遷された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「褚遂良」の解説

褚 遂良
ちょすいりょう

596〜658
唐初期の書家
銭塘(浙江 (せつこう) 省杭州市)の人。王羲之 (おうぎし) の書風をつぎ,太宗李世民 (りせいみん) の書道の顧問となった。また諫臣 (かんしん) として職務に忠実で信任を得,中書令(宰相)にのぼった。高宗のとき,則天武后を皇后にするのに反対して左遷され地方で没した。

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世界大百科事典(旧版)内の褚遂良の言及

【書】より

…太宗自身も王羲之風の書をよくし,《晋祠銘》《温泉銘》などの行書碑を書いた。欧陽詢の代表作には《皇甫誕碑》《化度寺碑》《九成宮醴泉(れいせん)銘》,虞世南に《孔子廟堂碑》,褚遂良(ちよすいりよう)には《孟法師碑》《雁塔聖教序》などがある。次いで,則天武后の時代には,孫過庭が《書譜》を書いて,理論と実作の両面から王羲之の伝統を守ろうとした。…

【聖教序】より

…その数は多いが,唐の貞観22年(648)玄奘三蔵が《瑜伽師地論》100巻を翻訳したのに対して,太宗から賜った序が最も古く名高い。永徽4年(653),その序文を褚遂良(ちよすいりよう)が書いて長安の慈恩寺大雁塔内に建てたのが《雁塔聖教序》である。また弘福寺の寺主円定らが勅許を得て,寺僧懐仁に命じて王羲之の書から集字させて刻したのが《集王聖教序》である。…

【唐】より

… 唐は隋に引き続き,行政や軍事といった国家の根幹にかかわる制度については,おもに北朝の伝統を受け継いだが,芸術や文学については,漢民族の伝統を守ってきた南朝の貴族文化を受け継ぐことが多かった。唐初の人物画の名手であった閻立本(えんりつぽん)は顧愷之(こがいし)の手法を発展させたし,初唐の三大書家といわれる虞世南欧陽詢褚遂良(ちよすいりよう)は王羲之の正統を伝えて楷書を完成させた。儒教においても,太宗が孔頴達(くようだつ)に命じて編集させた《五経正義》は,漢以来の古典解釈学を集大成したものであるが,多く南朝の学説が採用された。…

※「褚遂良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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