筒井村(読み)つついむら

日本歴史地名大系 「筒井村」の解説

筒井村
つついむら

[現在地名]田主丸町菅原すがわら

鹿狩ろつかり村の西に位置する。屋敷地は筑後川南岸にあり、川沿いに当村内浜崎はまさき名、塩足しおたり村内かたがある(上三郡絵図)。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊宛行状(星野家伝記)によると、樋口越前守に筒井村一一三石余などが与えられている。本高は一三二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三六〇石・役高六五七石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦三五石七斗・小麦二一石四斗余・菜種一四石二斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)

筒井村
つついむら

[現在地名]中央区筒井町一―三丁目・割塚通わりづかどおり四―七丁目・大日通だいにちどおり四―七丁目・神若通かみわかどおり一丁目・宮本通みやもとどおり三―七丁目・坂口通さかぐちどおり一―七丁目・上筒井通かみつついどおり一―七丁目・野崎通のざきどおり一―五丁目・籠池通かごいけどおり一―五丁目・中島通なかじまどおり一―三丁目・神仙寺通しんせんじどおり一―三丁目

中尾なかお村の東、六甲ろつこう山地南麓山寄りの緩傾斜地に立地する。「山槐記」治承四年(一一八〇)一一月二一日条によれば、中山忠親は朝早く福原ふくはらの宿所を出て京に向かい日が昇りはじめた頃筒居辺りを通過している。

筒井村
つついむら

[現在地名]大野城市筒井一―五丁目・大池おおいけ一―二丁目・御笠川みかさがわ二丁目・同五丁目・錦町にしきまち一―四丁目・栄町さかえまち一―三丁目・雑餉隈町ざつしよのくままち一―五丁目・瓦田かわらだ四丁目

山田やまだ村の南、御笠川中流域にある。東は乙金おとがな村。同川左岸を日田街道が通る。村名の由来は木の筒を井桁とした筒井という清水があったことによる(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では山田村のうちに含まれる。慶長石高帳に筒井村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は七九四石余。元禄五年(一六九二)には高八〇四石余、家数四〇・社二、人数二九一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も八〇四石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数五〇(うち酒家一)・人数二五〇、牛四〇・馬二(別本「続風土記附録」)

筒井村
つついむら

[現在地名]青森市筒井

東は駒込こまごめ川を挟んで古館ふるだて村、西はあら川を隔ててつつみ村と接する。

古くは中崎なかさき村とよんだといわれるが(津軽平野開拓史)、貞享四年(一六八七)の検地帳には筒井村とあり、田方三八町九反九畝二七歩、畑方七六町九反七畝七歩、田畑屋敷合せて一一五町九反七畝四歩、村高三四六・〇一九石とある。ほかに「末々田畑ニ可致開発」田畑地一三町二反八畝一八歩があり、八間に六間の薪積場一ヵ所が記される。

筒井村
つついむら

[現在地名]松前町筒井

寛文一一年(一六七一)に松前村から分郷した新村であるが、早くから集落を形成していたと思われる。「泉水の湧き出づる所を筒井と詔玉ふ」(筒井八幡神社由緒)とあるように筒井の地名は古く、味噌みそふち(現玉生神社近辺)に清水が湧き出ていたので筒井といい、この地域を筒井の里と名付けたという。

慶長八年(一六〇三)加藤嘉明の松山移城後、村民は居を城地周辺より現在の筒井地域に移して農耕を営み、田地を開発した。小字に城新田しろしんでん唐新開とうしんがい・西新田・北新田・宗意箱そいばこ新田・江川下塩新畑えがわしもしおしんば・南新田および代官だいかん新田などがある。

筒井村
つついむら

[現在地名]野津町都原みやこばる 筒井

赤迫あかさこ村の北東、南西流する都松みやこまつ川北岸にあり、臼杵うすきおか城路が北東から南西に通る。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には筒井村と池原いけばる村など五ヵ村が一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では高四五石余。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一八石余・畑方二七石余。正保郷帳では野津之院に属し、高二五七石余(田方一三六石余・畑方一二〇石余)は赤迫村・池原村分を含む。

筒井村
つついむら

[現在地名]南淡町筒井

福良ふくら浦の東にある。東は南北に通じる沼島ぬしま(現県道洲本―南淡線)を境にして新田中しんでんなか村、南は伊賀野いがの村。当地中央部を源流とする山路やまじ川が北に流れ鍛冶屋かじや村に入る。正保国絵図に村名がみえ、高四六一石余。天保郷帳では高七三三石余。阿万組に属した。反別戸数取調書によると反別七六町九反余、高七五四石余、うち蔵入高一一六石余。六三七石余を池田登ら一七人の給人が知行した。家数二〇九・人数一千二二。江戸後期当村庄屋田村次郎大夫が阿万組の組頭庄屋を勤め、天保期(一八三〇―四四)には阿波徳島藩から小高取格を受けた。高野山真言宗薬王やくおう寺は宝永元年(一七〇四)の創建で、江戸時代より淡路四十九薬師第一七番の札所として厄除け祈願の寺であった(味地草)

筒井村
つついむら

[現在地名]大和郡山市筒井町

佐保川西方、丹後庄たんごのしよう村南方に所在、環濠集落。集落全体が城塁で、「多聞院日記」などには筒井平城とあり、室町時代、大和の政治的中心として繁栄した。「多聞院日記」天文一一年(一五四二)三月一七日条に「筒井郷・奈良中ノサワキハ神慮ヨリ事起ル歟ト万人申アヰ了」とあり、「経覚私要鈔」宝徳二年(一四五〇)一一月一八日条に「今日筒井市場依失火三十(軒)計焼失畢」と記す。

文禄検地では田畑屋敷合九〇町一畝一五歩、分米合一三〇一・五八石。検地奉行は長束正家。慶長六年(一六〇一)小泉藩(片桐貞隆)領となり、廃藩置県に至った。文政四年(一八二一)の村明細帳によると家数一三〇、人口五八九人、寺五ヵ所、神社二ヵ所とみえる。

筒井村
つついむら

[現在地名]伊万里市波多津町はたつちよう筒井

標高二〇〇メートル前後の丘陵地帯で、行合野ゆきあいの川とこれに合流する加倉かくら川の川沿いに狭小な水田がみられる。正保絵図に村名がみえる。

「松浦古事記」に「岡本山代守是吉(中略)松浦郡筒井村に新城を開く」「城後城人皇六十二代村上天皇天暦三戊申年中岡本山城守開、同年中 山上十五左衛門開」とあり、さらに波多三河守の家臣として「鶴田太郎左衛門橘度年 筒井村 五百石」ともある。城後じようご城ともよばれたのは、畑津はたつ城の背後を守る城であったからだという。「松浦拾風土記」には「筒井村に鶴田太郎左衛門の墓所あり。

筒井村
つついむら

[現在地名]彦根市日夏町ひなつちよう

甘呂かんろ村の南に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高二二八石余、うち五石八斗は小物成。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ八分。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数一〇四、うち寺社方六。

筒井村
つついむら

[現在地名]龍野市神岡町筒井かみおかちようつつい

林田はやしだ川を挟んで野部のべ村の西に位置し、北はかまえ(現姫路市)、南は西鳥井にしとりい村。揖東いつとう郡に属する。慶長六年(一六〇一)の池田輝政家臣地方知行状(鳥取県立博物館蔵)によると、山田兵左衛門は筒井村の二〇一石余など都合三五〇石を与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。領主の変遷は宿しゆく(觜崎宿)村と同じ。

筒井村
つついむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 筒井

上野うえの村の北、せり川の支流筒井川西岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高四七石余・畑高三六石余、朽網くたみ郷に属した。旧高旧領取調帳では高一六三石余。岡藩領時代は長野組に属した(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

筒井村
つついむら

[現在地名]神栖町筒井

外浪逆そとなさか浦の東岸にあり、北は下幡木しもはたき村。弘安大田文に「同宿内筒井三丁五段」とあり、鹿島郡南条下宿の内にあった。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百六十壱石四斗六升 つつい」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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