デジタル大辞泉
「布施辰治」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ふせ‐たつじ【布施辰治】
- 社会運動家、弁護士。宮城県出身。大正中期以降農民運動、労働運動、水平運動などの活動家の弁護、救援活動を活発に展開。昭和元年(一九二六)には日本労働組合総連合会長。戦後は、三鷹事件・松川事件の弁護を担当した。明治一三~昭和二八年(一八八〇‐一九五三)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
布施辰治
ふせたつじ
(1880―1953)
大正・昭和期の弁護士、社会運動家。宮城県に生まれる。1902年(明治35)明治法律学校(現明治大学)卒業、司法官試補(検事)となり宇都宮地裁に赴任するが、法律の社会的不備を痛感し、まもなく辞官、弁護士となる。足尾鉱毒事件やトルストイの影響から人道主義の立場を貫き、社会運動擁護のために、東京市電値上げ反対運動、米騒動、第一次共産党事件、亀戸(かめいど)事件、朴烈(ぼくれつ)事件、朝鮮共産党事件、台湾農民組合騒擾(そうじょう)事件をはじめ、各地の小作争議、労働争議の弁護・救援にあたる。21年(大正10)自由法曹団の創立の中心となる。普選運動や借家人運動にも加わり、『法廷より社会へ』『法律戦線』などを刊行して法律の社会化を図る。最大の法廷闘争は三・一五、四・一六事件の統一公判だったが、その言動から懲戒裁判に付され、32年(昭和7)弁護士資格を失い、さらに33年には新聞紙法違反で下獄(禁錮3か月)、日本労農弁護士団の治安維持法違反で検挙・起訴(39年懲役2年の刑確定)という弾圧を集中された。戦後、自由法曹団再建に際し顧問となり、三鷹(みたか)事件、松川事件、メーデー事件などの弁護にあたった。
[荻野富士夫]
『布施柑治著『ある弁護士の生涯』(岩波新書)』▽『布施柑治著『布施辰治外伝――幸徳事件より松川事件まで』(1974・未来社)』▽『自由法曹団編『自由法曹団物語 戦前篇』(1976・日本評論社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
布施辰治
没年:昭和28.9.13(1953)
生年:明治13.11.13(1880)
明治から昭和にかけての弁護士。現在の宮城県石巻市に生まれる。明治法律学校(明治大学)を卒業後,司法官試補を経て明治37(1904)年弁護士となる。熱心なトルストイアンであったが,39年の東京市電値上げ反対騒擾事件の弁護を契機に,以後もっぱら社会運動関係の弁護活動を行う。米騒動,釜石・足尾・八幡争議の弁護を行い,大正10(1921)には山崎今朝弥,片山哲らと自由法曹団を結成,11年には借家人同盟を設立した。その後,第1次日本共産党事件,朴烈事件,アナキストのギロチン社事件,木崎村争議など社会的に注目された多くの事件の弁護を行うと同時に,朝鮮独立運動結社の義烈団事件,朝鮮共産党事件,台湾蔗糖農民組合事件などの植民地関係の事件もてがけた。自らも昭和3(1928)年の最初の普通選挙に労働農民党から立候補した。また3・15事件(1928),4・16事件(1929)の共産党員の弁護に当たったが,3・15事件の公判における言動から懲戒裁判にかけられ,7年に弁護士資格を失った(のち恩赦で復活)。8年に他の日本労農弁護士団員と共に検挙され(赤色弁護士団事件),14年に治安維持法違反で懲役2年の判決が確定,翌年の紀元2600年恩赦で出獄。戦後は自由法曹団を再建して顧問となり,三鷹事件の弁護団長を務めるとともに,松川事件,メーデー事件,吹田事件などの弁護人となった。<著作>『生きんが為に』『死刑囚十一話』<参考文献>布施柑治『ある弁護士の生涯』『布施辰治外伝』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
布施 辰治
フセ タツジ
明治〜昭和期の弁護士,社会運動家
- 生年
- 明治13(1880)年11月13日
- 没年
- 昭和28(1953)年9月13日
- 出生地
- 宮城県牡鹿郡蛇田村(現・石巻市)
- 学歴〔年〕
- 明治法律学校(現・明治大学)〔明治35年〕卒
- 経歴
- 判検事試験に合格、司法官試補となり宇都宮地裁に赴任したが、1年で辞任、明治36年弁護士となる。大正中期から数多くの労働・農民・水平・無産運動被告の弁護、救援活動、人権擁護運動に活躍。44年の東京市電争議、大正7年の米騒動、亀戸事件、朴烈大逆事件、再三弾圧にあった共産党事件など、官憲と対決する姿勢を貫く。捜査機関の被疑者に対する拷問による自白強要を激しく攻撃する論文を公表、このため2度も検挙され服役し、昭和7年には弁護士資格を奪われた。敗戦により資格復活、自由法曹団顧問、三鷹事件弁護団長などを務める。ほかにプラカード事件、松川事件、メーデー事件の弁護人も務めた。著書に「噫々刑事裁判の時弊 司法機関改善論」「法廷より社会へ 生きんが為に」「死刑囚十一話」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
布施辰治 (ふせたつじ)
生没年:1880-1953(明治13-昭和28)
大正・昭和期の弁護士,社会運動家。中農の次男として宮城県に出生。1902年明治法律学校(現,明治大学)卒業。宇都宮裁判所の検事代理を数ヵ月で辞し,生涯を人権擁護の弁護士活動に捧げる。学生時代には足尾鉱毒事件に関心をよせ,東京市電値上反対事件(1906),米騒動(1918),亀戸事件(1923),朴烈事件(1924)などの弁護・救援に当たる。自由法曹団の生みの親。三・一五事件(1928)公判闘争では弁護士資格を剝奪されるほど官憲の心胆を寒からしめた。松川事件の審理を気にしながら胃癌で急逝。
執筆者:岩村 登志夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
布施辰治
ふせたつじ
[生]1880.11.13. 宮城,蛇田
[没]1953.9.13. 東京
弁護士。人権擁護と社会運動における犠牲者救援のために,終生を捧げた。 1902年明治法律学校を卒業。 03年東京で弁護士となった。 06年の東京市電の運賃値上げ反対事件をはじめ,18年の米騒動,23年の亀戸事件,24年の朴烈事件,28年の台湾農民組合騒擾事件,同年の三・一五事件および 29年の四・一六事件などで弁護や救援に率先してあたった。 21年川崎の三菱造船所の大争議を契機に,山崎今朝弥らと自由法曹団を結成,32年懲戒裁判で弁護士を除名され,39年には救援会弁護士団事件により懲役2年に処せられ翌 40年に出所。第2次世界大戦後は自由法曹団の再建に努め,三鷹事件の弁護団長になるなど多彩な活躍をした。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
布施辰治 ふせ-たつじ
1880-1953 明治-昭和時代の弁護士,社会運動家。
明治13年11月13日生まれ。39年の東京市電争議,大正7年の米騒動などを弁護。10年自由法曹団を結成した。亀戸(かめいど)事件,三・一五事件の弁護・救援活動をおこない,昭和7年弁護士資格をうばわれる。戦後は三鷹事件の弁護団長をつとめ,松川事件,メーデー事件などを担当した。昭和28年9月13日死去。72歳。宮城県出身。明治法律学校(現明大)卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
布施 辰治 (ふせ たつじ)
生年月日:1880年11月13日
明治時代-昭和時代の弁護士;社会運動家
1953年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の布施辰治の言及
【住宅問題】より
…日本でも第1次大戦後の不況に伴う失業・低賃金等は借家人の家賃負担を大きくし借家争議が相次いだ。1922年,弁護士[布施辰治]および[友愛会]会員により〈借家人同盟〉が結成され,全国に広がった。しかし戦争とともに弾圧され消滅した。…
【自由法曹団】より
…民衆運動弾圧事件の犠牲者への積極的な弁護・支援活動にあたってきた弁護士の団体。神戸の[川崎・三菱神戸造船所争議]の調査を契機に,1921年山崎今朝弥,布施辰治,上村進,片山哲ら数十名によって結成され,亀戸事件や多数の労働争議・小作争議に関与した。26年の無産政党分裂で団の統一的活動が困難となり,さらに三・一五事件等の公判方針をめぐり左翼弁護士間の統一も崩れたが,個人の団を自称した活動が行われた。…
※「布施辰治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」