749年(天平勝宝1)に設置された令外官。令,弼,忠,疏の四等官22名がおかれた。もと光明皇后の意志の伝達,日常生活等を営むために729年(天平1)設置された皇后宮職を改称したものである。孝謙天皇の即位にともなって光明皇后が皇后から皇太后へかわったことに際してとられた措置であるが,紫微中台の長官(紫微令,後に紫微内相)に藤原仲麻呂が任命され,光明皇后との密接なつながりを官職上ももったことが注目される。当時,仲麻呂は大納言であったため,公的政治の場である太政官にも影響力をもち,同時に光明皇太后とむすんで天皇家と直接連絡をとるという立場をもつこととなった。仲麻呂はこの紫微中台を利用してみずからの権力を築いていったものとされている。758年(天平宝字2)に紫微中台は坤宮官(こんぐうかん)と改称し,761年に廃止された。職掌は皇后宮職と同じで,光明皇太后の啓令(伝達)を第一とし,その下部機構に皇太后宮の営みをささえる組織がつくられていた。
執筆者:鬼頭 清明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良時代の令外官(りょうげのかん)。749年(天平勝宝1)孝謙天皇が即位し、生母である光明皇后が皇太后となったのに伴い、皇后宮職(こうごうぐうしき)を改組したもの。令(れい)・弼(ひつ)・忠(ちゅう)・疏(そ)の四等官(しとうかん)制をとり、官位相当は八省より高かった。紫微令には光明皇太后の甥の藤原仲麻呂が任用された。仲麻呂は紫微中台を利用して権力を蓄え、757年(天平宝字1)には紫微令を改めた紫微内相(ないしょう)となるが、これは、天皇の勅を奉じて諸司にわかち、かつ内外諸兵事を統轄する職掌をもつものであった。758年の官号改易の際に坤宮官(こんぐうかん)と改称されるが、同日仲麻呂が大保(だいほう)(右大臣を改称)に転任すると、坤宮官は長官を欠いたままとなり、760年の光明皇太后崩御の後、ほどなく廃止された。
[川敏子]
『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1987・吉川弘文館)』▽『栄原永遠男編『古代の人物3 平城京の落日』(2005・清文堂出版)』
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