羅城門
らじょうもん
「らせいもん」「らいせいもん」とも読む。羅生門と書き、「らしょうもん」と読まれるようになったのは後世になってからである。羅城(都城を囲む城壁)にある門という意味。平城京、平安京の正門で、京の南面中央にあり、朱雀(すざく)大路を隔てて朱雀門と対する。外国使節を迎えたり、京中の鬼気を追い出す「羅城祭」などの儀式も行われた。
平城京の遺構は奈良市と大和郡山(やまとこおりやま)市の境にある。近くを流れる佐保川により大部分が破壊されているが、その規模は東西5間と推定されている。平安京では東西7間、南北2間の重層門とされる。816年(弘仁7)に大風で倒壊、すぐに再建されたが、980年(天元3)ふたたび倒れてからは再建されていない。『今昔物語集』には羅城門の楼上に死人が捨てられていた話があり、平安京の荒廃ぶりを示す例としてよく知られている。
[吉田早苗]
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羅城門
らじょうもん
平城京,平安京の京城正門。唐制にならって朱雀大路の南端に設けられた。門の外を洛外という。平城京の羅城門跡は奈良県大和郡山市来生にある。平安京のそれは弘仁7(816)年大風で倒れ,以後再建と倒壊を繰り返し,天元3(980)年に倒れてからはそのまま放置された。寛弘1(1004)年に成功による再建が試みられたが,実現をみなかった。『今昔物語集』には鬼のすみかとなっていたという話が載せられている。門跡は京都市南区にあり,教王護国寺(東寺)の西方,千本通の南端にあたる。(→朱雀門)
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羅城門【らじょうもん】
平城京・平安京の正門。羅城は都城(とじょう)の周囲にめぐらした築地(ついじ)で,羅城門(羅生門)は朱雀大路(すざくおおじ)の南端にあり,北端の朱雀門と相対。平安京では重層の門で正面7間。平安時代にはしだいに荒廃し,《今昔物語集》には死骸が捨てられていたと記される。現在は東寺の西に門址標石がある。平城京の門址は大和郡山市にある。
→関連項目朱雀大路|鳥羽作道
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羅城門
らじょうもん
平城京・平安京の正門
羅城は都の周囲にめぐらした外郭で,羅城門は朱雀大路 (すざくおおじ) の南端にあった。平城京の羅城門址は奈良県大和郡山市にある。門は重層で平安京のそれは東西10丈6尺9(約32m),南北2丈6尺(約8m),東寺の西大門の西にあった。
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らじょう‐もん〔ラジヤウ‐〕【羅城門】
平城京・平安京の都城の正門。朱雀大路の南端に設けられ、北端の朱雀門と相対した。平城京の羅城門跡は大和郡山市に、平安京のものは東寺の西方にある。羅生門。
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らじょうもん【羅城門】
日本古代の都城の南中央門。平安京では《拾芥抄》に〈二重閣九間〉とあって9間3戸の門で,2階だてであったことが知られる。平安京内の朱雀大路の南端にあって,京外との境にたっていた。内外ともに溝があって橋がかけられていた。溝の幅は約3m,東西に羅城がとりついていた。門の内側に九条大路があり,外側にも門外大路があった。羅城門の外はそのまま鳥羽作道(鳥羽街道)に通じており,中世では付近に四塚の地名をのこしていた。
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