美濃国の刀工によって作られた刀剣の総称。美濃鍛冶の名は《平治物語》に源頼朝が平清盛に捕らえられた際,源氏重代の太刀〈鬚切(ひげきり)〉を美濃鍛冶泉水の作とすり替えて渡したとあるように古くから知られていた。銘鑑には,この泉水のほか外藤,長基,宗吉,寿命などの名がみえるが,いずれも平安時代までさかのぼる作は現存していない。現存する有銘作では〈美濃国為国上 貞応二年(1223)三月〉銘の太刀が最も古く,また《往昔抄》には永仁5年(1297)銘の寿命の太刀図を掲げている。こうした美濃を本貫とする鍛冶のほかに鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては他国から移住してきた者が多く,このころから美濃鍛冶は隆盛することとなった。まず大和からは手搔(てがい)系の包氏(かねうじ)が志津(多芸郡)に移り(大和物),兼氏と改銘して一派を形成し,さらにその一門である兼次,兼友らは同郡の直江(なおえ)に移住した。兼氏は正宗十哲の一人で,志津三郎と称して著名であり,その門人を直江志津とよんでいる。また兼氏とともに正宗十哲の一人にあげられる金重は越前敦賀から関に移住し,関鍛冶の祖となったと伝える。越中の則重の弟子と伝える為継も不破郡に移り,大和の千手院の末流も赤坂へ移り住んで赤坂千手院と称している。
室町時代には美濃鍛冶は武儀郡の関を中心として最盛期を迎え,〈関物〉といわれて美濃国の代表的産物となっている。関市春日神社の《関七流の事》には,金重の子の金行の娘に手搔包永を養子に迎え,兼永と改銘し,その子孫が分かれて,善定兼吉,三阿弥兼高,奈良兼常,得印兼久,得永兼宣,良賢兼舟,室屋兼在らが一派を興したと記している。そして中期以降は関近隣の蜂屋に兼貞,坂倉に正利,赤坂に兼元,清水に兼定らも活躍している。関鍛冶の多くは銘に〈兼〉の字を冠するものが多いが,それは氏神の関の春日神社が奈良春日大社を勧請したのであって,藤原鎌足の鎌の字の旁(つくり)をとったことに由来すると伝えている。
関鍛冶は室町末期から各地に移住し,近世城下町が成立するとそこに定住するようになった。新刀期の刀工の多くは関鍛冶出身者から発展したといっても過言ではない。京の三品派の金道,吉道,正俊,また康継を中心とする兼植,兼法,兼則らの越前鍛冶,尾張の政常,氏房,信高,安芸の輝広,加賀の兼若らはその代表的鍛冶である。作風は,初期の兼氏は相州物の影響を受けた強い沸出来(にえでき)の湾れ(のたれ)に互の目(ぐのめ)を交えたもので,金重には皆焼(ひたつら)の脇指(わきざし)がただ一口現存している。いわゆる関物は,室町初期には兼吉に代表される直刃(すぐは)があるが,一般的には匂口(においくち)の沈んだ湾れに尖り刃を交えた作が多い。また兼房の互の目丁子乱(ちようじみだれ),兼元の三本杉など特徴ある作風をみせる者もいる。
→日本刀
執筆者:原田 一敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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