羽州探題(読み)うしゅうたんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

羽州探題
うしゅうたんだい

室町幕府の地方職名奥州探題の大崎 (斯波) 家兼が正平 11=延文1 (1356) ~正平 13=延文3年 (58) ,子の兼頼を山形におき最上氏を称させ,出羽国の軍事,民政を支配させたのに始る。以後最上氏を称して代々世襲したが,最上義光の時代が最盛期であった。のち在地土豪の勢力が強くなり,衰えていった。天正 18 (1590) 年小田原征伐のとき,豊臣秀吉に服属後廃止された。

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デジタル大辞泉の解説

うしゅう‐たんだい〔ウシウ‐〕【羽州探題】

室町幕府の職名。出羽国の軍事・民政を総管奥州探題斯波家兼(しばいえかね)の次男兼頼(かねより)が出羽を分掌したのに始まり、以後子孫が世襲。最上(もがみ)にいたので最上氏を称した。

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百科事典マイペディアの解説

羽州探題【うしゅうたんだい】

室町幕府の出羽(でわ)国統治機関。出羽国の軍事・民政を総管。奥州(おうしゅう)探題の斯波(しば)家兼没後,1356年,長男が陸奥(むつ)国,二男兼頼(かねより)が出羽国を分掌,後者を羽州探題と称し,以後その子孫最上氏が世襲したとされる。なお前者は後の奥州探題で大崎氏が継承。
→関連項目斯波氏

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世界大百科事典 第2版の解説

うしゅうたんだい【羽州探題】

室町幕府の出羽国統治機関であり,1356年(正平11∥延文1)斯波兼頼が任命されて以後,その子孫最上氏が代々就任した,と伝えられる。江戸期作成の故実書《武家名目抄》以来の通説であるが,正式の職制と明記する同時代史料に乏しい。奥州探題大崎氏側の《余目(あまるめ)氏記録》(1514)や徳川家康の家臣曾我尚祐の故実書《座右抄》などは,羽州探題の存在を否定さえする。しかし,《羽黒山年代記》宝徳2年(1450)条の〈最上探題〉の記事を除いても,1377年(天授3∥永和3)の出羽国棟別銭賦課や,1449年(宝徳1)出羽国での使節遵行,60年(長禄4)出羽国の国内国人に対する軍事指揮権など,いずれも,陸奥国にのぞむ奥州探題大崎氏と並んで,最上氏とみられる人物が出羽国の担当官に指名されており,通説の妥当性を支える。

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大辞林 第三版の解説

うしゅうたんだい【羽州探題】

室町幕府の職名。出羽国の軍事・民政を総管する。奥州探題斯波家兼の死後、二男兼頼が出羽を分掌したのに始まる。出羽大将。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

羽州探題
うしゅうたんだい

室町幕府の出羽(でわ)国統治機関。地方行政府の一つ。1356年(正平11・延文1)斯波兼頼(しばかねより)を出羽国山形に入部させたのが始まりと伝えられる。史料的に明証乏しく、実態は未詳であり、16世紀初頭期に奥州探題側の秩序を記したという『余目氏(あまるめし)旧記』や近世初頭期の故実書『座右抄』などは、羽州探題不存在さえ説くが、南北朝後期に設置の羽州管領(かんれい)が室町前期に羽州探題と改称され、兼頼の子孫が山形氏や最上(もがみ)氏を名のって、出羽国の国人を指揮し、棟別銭(むねべつせん)賦課や使節遵行(じゅんぎょう)を担当した痕跡(こんせき)がある。のちに最上義光(よしあき)が出羽探題を称したのも、この伝統があったからであろう。[遠藤 巌]

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世界大百科事典内の羽州探題の言及

【探題】より

…室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。九州を管領する九州探題,陸奥・出羽2国を管領する奥州探題とそれから分化して出羽1国を管領する羽州探題等である。このほか南北朝期の中国管領(中国探題)細川頼之や戦国期の羽柴秀吉の中国探題などの例もある。…

【出羽国】より

…だが観応の擾乱(じようらん)以後の政変により奥州管領は分裂し,56年(正平11∥延文1)出羽一国を管轄対象とする羽州管領も成立したと伝えられる。初代管領は斯波兼頼で,やがて職制は羽州探題に切り換えられた。しかし羽州管領と羽州探題の存在を否定する説もある。…

※「羽州探題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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