千葉県北西部にある市。下総(しもうさ)台地と東京湾の埋立地からなる。1954年(昭和29)津田沼町が習志野町と改称し、同年市制施行。地名は、明治初年大和田(おおわだ)原で行われた陸軍近衛(このえ)師団の演習に際し、明治天皇が習志野原と命名したことに由来。JR総武本線、京葉線のほか京成電鉄、新京成電鉄、国道14号、357号、京葉道路が通じ、東関東自動車道の湾岸習志野、谷津船橋の2インターチェンジもあり、交通の便がよい。
中世、千葉氏の勢力下にあったが、江戸時代は幕府直轄地となり、台地には小金牧(こがねのまき)の一つ下野牧(しものまき)が置かれた。明治以後、牧は陸軍の演習場となり、1899年(明治32)の騎兵連隊設置に続いて騎兵旅団司令部、鉄道第二連隊、捕虜収容所などが置かれ、軍都としての色彩を強めた。第二次世界大戦後は軍跡地に東邦大学、順天堂大学、日本大学、千葉工業大学や国立習志野病院が誘致され、住宅地も広く開発、文教・住宅都市への転換が図られた。台地上ではニンジン、ネギなどの都市近郊農業が行われるが、東習志野工業団地も形成されている。JR津田沼駅には総武本線、東京地下鉄東西線が乗り入れ、近接の新京成線新津田沼駅との乗り換えなど、朝夕のラッシュ時は乗降客が多い。駅前にスーパーやデパートの大型店舗が出店し、商戦が活発化している。
1925年(大正14)から続いてきた谷津(やつ)遊園とそのバラ園は貴重であったが、1982年(昭和57)の閉園後、大部分は住宅・都市整備公団(現、都市再生機構)の住宅地にかわり、一部は谷津バラ園として1988年(昭和63)改めて開園、存続した。また、その前に広がる水鳥の生息地として貴重な谷津干潟は、一時期埋立てが計画されたが、1988年環境庁(現、環境省)が国設鳥獣保護区(41.2ヘクタール)に設定した(40.1ヘクタールは特別保護地区)。1993年(平成5)には、ラムサール条約登録湿地にもなり、1994年自然観察センターを含む谷津干潟公園が全面開園され、保護された。小金原のしし狩り資料と、藤崎森林公園にある旧大沢家住宅は県指定有形文化財、藤崎堀込貝塚は県指定史跡。面積20.97平方キロメートル、人口17万6197(2020)。
[山村順次]
『『習志野市史 通史編・史料編』全4巻(1986~1995・習志野市)』
千葉県北西部の市。1954年津田沼町を中心に市制。人口16万4530(2010)。両総台地末端に位置し,東京湾に面する。明治以来,台地には騎兵連隊,鉄道連隊などの軍隊施設が設置され,市名も陸軍演習地であった習志野原にちなむ。戦後これらの軍用地は千葉工業大学など四つの大学や病院の敷地となり,また自衛隊も使用している。千葉市の西隣に位置し,JR総武線や京葉線,京成電鉄,新京成電鉄,京葉道路,東関東自動車道が通り交通の便がよいので,東京への通勤者用の住宅地として開発が進み,人口が急増した。ノリや貝の養殖地であった海面も埋め立てられて袖ヶ浦などの大団地が造成された。京成線谷津駅近くの谷津遊園跡地の一部に,世界のバラ約700種を集めた谷津バラ園がある。海岸は京葉港の一部で水産会社の冷蔵庫や加工場が立地し,内陸には電気機器,金属・機械製造などの工業団地が建設されて工業化も著しい。中心市街は新京成電鉄の分岐する京成津田沼駅周辺と,百貨店の進出が激しいJR津田沼駅前。京葉港埋立てが完了し,港湾都市としての発展も期待される。
執筆者:菊地 利夫
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